太古の個 ―細胞から死者の声を分離した研究員の記録―
鏡聖
第1話 霧の朝
白い霧が棚引いていた。
その朝、村の空気は異様に湿っていた。冷え込みはさほどでもない。にもかかわらず、山の麓を包むように立ち込める霧は、どこか蒸れた布のような匂いを漂わせていた。
集会所には、誰もいなかった。
谷を見下ろすように建てられたその木造の建物は、朝霧に沈み、息を潜めているようだった。
畳の縁に染みた茶色い跡だけが、人の存在を証明している。
囲炉裏の火は落とされたまま、灰の上にうっすらと朝日が差している。
村の中心にある一軒の家にだけ、人の気配があった。
屋内には数人の男女が並び、低い声で短く言葉を交わすだけで、泣き声も、嘆きも、祈りの声もなかった。
まるで何かが済むのを、ただ待っているかのように。
その日の昼過ぎ、遺体が戻ってきた。
黒い車のドアが開き、担架に乗せられた布に包まれた身体が下ろされた。見送りも、迎えもない。車は静かに立ち去り、再び霧の中へと消えていった。村人たちは黙ってそれを迎え入れ、決められた家屋の一室に遺体を安置した。
遺体の肌はまだ新しかった。
老人がひとり、坂の上からその様子を見ていた。
ただ、腰を下ろし、タバコを吸いながら、じっと谷の方を見ていた。
遠くで鶯が鳴いた。霧の白さは次第に薄れていったが、空気は妙に重かった。何かが違う、と老人は思った。
その違和感は風の匂いにも、土の手触りにも、集会所の屋根を這うカラスの影にも潜んでいた。
“あれ”は、そこにいるべきだったのに。
まだ、村には還ってきていない。
陽が落ちる前に、儀式が始まった。
囲炉裏に再び火が入れられ、文様の入った布が壁に張られた。もがりの儀礼は、古くから伝わる手順に則って、滞りなく進められたように見えた。
——だが、肝心のそれは、何も応じなかった。
もがりは、失敗した。
それでも村人たちは取り乱さなかった。誰も声を上げることはない。ただ静かに、淡々と手順を終えた。
夜の深まるなか、囲炉裏の火だけが、わずかに揺れていた。
それは、何かが“抜けた”夜だった。
本来ならば繋がれるはずのものが、どこか違う場所へ行ってしまった——
そう、誰もが言葉にせずに知っていた。
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