第二話 代役の条件

事務所を出たあと、私はしばらく駅前のベンチに座っていた。

人の声が多すぎて、頭の中が空っぽになった。


——引き継いでほしい。


社長の声が、何度も脳内で再生される。

冗談のようで、冗談ではなかった。

あの人は最初から、私が断れない前提で話を進めていた。


帰宅すると、親が待っていた。

連絡は、もう行っていたらしい。


「……事務所から、話を聞いたの?」


そう聞かれた瞬間、胸の奥がひやりとした。

私より先に、話が通っている。

それ自体が、少しおかしかった。


「少しの間だけ、やればいいんじゃない?」


母はそう言った。

慰めるような声だったけれど、目は落ち着いていた。

まるで、選択肢が一つしかないことを知っているような。


「お姉ちゃんの大事な居場所なんでしょう」

「急に消えたら、可哀想じゃない」


可哀想なのは、誰だろう。

ファンか。

事務所か。

それとも——。


私は何も言えず、自分の部屋に戻った。


スマートフォンを開く。

姉との最後のやり取りは、三日前で止まっていた。


《ちょっと疲れた》

《今度ご飯行こ》


それだけだった。

死ぬ人間の言葉には、見えなかった。


翌日、私は再び事務所を訪れた。

拒否するつもりだった。

少なくとも、条件を聞いてから考えようと思った。


会議室には、社長と数人のスタッフが揃っていた。

法務、マネージャー、技術担当。

誰一人として、泣いた形跡はない。


「まず、前提からお話しします」


社長は資料を広げた。


「お姉さんの死亡は、当面非公開です」

「公表すれば、炎上と憶測が避けられない」


画面に映るのは、SNSの分析グラフ。

“突然の活動停止”がどれほど危険か、数字で示されていた。


「あなたには、声と動きを担当してもらいます」

「個人情報、私生活、SNS管理は全てこちらで行います」

「外出、連絡先、交友関係にも制限が入ります」


それは、仕事の説明というより、拘束条件だった。


「……期間は?」


私が聞くと、社長は一瞬だけ間を置いた。


「状況を見て判断します」


期限はない。

終わりもない。


「報酬は、姉と同等です」

「違約金、法的責任はこちらで負います」


あまりに用意周到で、逆に寒気がした。

まるで、今日この場に来る前から

私が引き受けると決まっていたみたいだった。


その時、ふと気づいた。

会議室の隅に置かれたモニターに、姉の過去配信が流れている。


笑っている。

元気そうに、手を振っている。


「練習は必要ありません」


社長はそう言った。


「あなたは、すでに知っている」

「家族ですから」


——本当に?


私は、姉の配信を全部見ていたわけじゃない。

口調も、細かい癖も、正確には知らない。


それなのに、なぜか

“できる”と言われている。


契約書に目を落とす。

分厚い紙の中に、気になる一文があった。


【本契約において、活動主体は“キャラクター”とする】


人間の名前は、どこにも書かれていなかった。


「考えさせてください」


そう言うと、社長は穏やかに頷いた。


「もちろんです」

「ただ……初配信まで、あまり時間がありません」


圧をかけている自覚すらない口調だった。


帰り道、私は気づいた。

スマートフォンに、姉のアカウントで通知が届いている。


《配信準備、進んでます!》


私は、何もしていない。

それなのに。


家に帰ると、親友から連絡が来ていた。


《ねえ、事務所の話、受けるの?》

《あの子、本当は——》


続きは、送られてこなかった。


夜、鏡の前に立つ。

試しに、姉の配信でよく使っていた挨拶を口にした。


「こんばんは、今日も来てくれてありがとう」


驚くほど、違和感がなかった。


そのことが、何より怖かった。


——私は、いつから

姉の代わりになれる人間だったんだろう。

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