第13話 しあわせが逃げる
「……はぁ」
気づいたら、
息が、
声になっていた。
深い溜息、
というほどでもない。
無意識に漏れるやつ。
来賓室は、
相変わらず整っている。
静かで、
柔らかくて、
不便がない。
……不便が、ない。
「……はぁ」
また、出た。
理由は、
よく分からない。
嫌なことが
あったわけでもない。
疲れてる、
とも言い切れない。
でも、
溜息だけが増えていく。
椅子に座って、
指先を見る。
ネイルは、
崩れてない。
服も、
綺麗。
香りも、
ちょうどいい。
全部、
整ってる。
……なのに。
何か、
欲しいかと言われると。
特に、
ない。
喉は乾かない。
お腹も空かない。
眠くもない。
さっきまでは、
確かにあったのに。
三大欲求、
とかいうやつ。
でも。
それだけじゃない。
スマホを触りたい、とか。
誰かと話したい、とか。
外に出たい、とか。
そういうのも。
薄い。
全部、
「……別に」
で済んでしまう。
……おかしい。
前のボクなら、
絶対こんな状態、
落ち着かなかった。
退屈で、
不安で、
ソワソワして。
何かしら、
誤魔化してた。
なのに。
今は。
何も要らない。
というより。
要らない、
という感覚すら、
どうでもいい。
「……はぁ」
また。
与えられてるから、
なのかな。
水も。
食事も。
場所も。
安全も。
全部、
最初からある。
欲しがる前に、
揃ってる。
だから。
欲求が、
発生しない。
……そんなこと、
ある?
人間って。
でも。
ここでは、
起きてる。
ボクは、
背もたれに体を預けた。
楽。
楽すぎる。
「……はぁ」
溜息が、
もう癖みたいだ。
誰も、
聞いてない。
聞かれたら、
困る。
理由、
説明できないし。
別に、
不満でもない。
不幸でもない。
ただ。
何も、
要らない感じがする。
それが、
ちょっとだけ。
怖い。
「……はぁ」
天使って。
もしかして。
こうやって、
欲しなくなる
存在なのかもしれない。
……いや。
考えるの、
やめよう。
考えなくても、
困らない。
今は。
そう思って。
また一つ、
溜息を吐いた。
◇
天使様の溜息が、
増えている。
私は、
最初は気のせいだと思った。
呼吸の間。
沈黙の癖。
そういうものだと。
だが。
水を置いたとき。
香を替えたとき。
扉を閉めたあと。
必ず。
「……はぁ」
小さく、
漏れる。
苦しそうではない。
疲れているようにも、
見えない。
むしろ。
静かすぎる。
何も、
求めておられない。
食事も。
休息も。
会話も。
こちらが整えれば、
受け取られる。
だが、
欲しがられない。
……それが。
怖い。
私は、
足音を消して廊下を進み、
偉い方のもとへ向かった。
「失礼いたします」
声を潜める。
「天使様の件で……」
書類から、
視線が上がる。
「溜息が、増えております」
一瞬。
空気が、
止まった。
「……ほかに?」
「特に、不満は……」
「いえ、むしろ」
言葉を選ぶ。
「欲求が、
薄れておられるように
見受けられます」
偉い方の指が、
止まった。
「食事は?」
「嗜好品程度であれば」
「水は?」
「こちらが出した分だけ」
「会話は?」
「控えめです」
沈黙。
長い。
「……それは」
低く、
声が落ちる。
「人としての衰弱ではないな」
「はい」
「信仰による維持が、
進みすぎている可能性がある」
……進みすぎる。
それは、
良いことではない。
天使が、
“完全に”
なってしまう。
「対策は……」
「急ぐな」
即答だった。
「刺激は、与えるな」
「欲を、
思い出させる必要はない」
「だが」
視線が、
扉の向こうを向く。
「人としての痕跡が、
完全に消える前に」
言葉が、
途切れた。
誰も、
続きを言わない。
言えない。
天使様が、
静かに在ること。
それが、
国益だ。
だが。
“何も欲しない存在”は、
人の世界には、
長く留まれない。
私は、
小さく頭を下げた。
「引き続き、
様子を見ます」
「頼む」
廊下を戻りながら、
私は思った。
どうか。
溜息が、
祈りに変わりませんように。
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