第5話 コンビニのおにぎりみたいな私

「——お疲れ様、小日向さん」


不意に背後から声をかけられ、明里は心臓が口から飛び出るほど驚いた。


「ひゃっ……!?」


慌てて振り返る。 ポケットに戻そうとした口紅のケースを握りしめたまま、体が硬直する。


そこに立っていたのは、営業三部のサブリーダー、蓮見栄治だった。


「あ、は、蓮見先輩……! お、お疲れ様です!」


黒縁眼鏡の奥の瞳が、穏やかに細められる。 切れ長の目。通った鼻筋。清潔感のある短い髪。スーツの着こなしは隙がなく、立っているだけで絵になる人だ。


二十代後半。部下のフォローが上手く、取引先からの評判も良い。いつも冷静で、でも冷たくはない。明里が密かに——本当に密かに——想いを寄せている相手。


「休憩中ごめんね。さっきの見積書、直してくれてたでしょう?」


「え……」


明里は目を瞬かせた。

気づいていたのだ。 誰にも知られないように、こっそり修正したつもりだったのに。


「あ、あれは、その……気づいたので、つい。勝手なことしてすみません」


「謝ることないよ」


蓮見は給湯室のカウンターに歩み寄り、コーヒーサーバーに手を伸ばした。

明里の視線は、無意識に彼の手元へ吸い寄せられた。


カップを持つ、すらりと伸びた長い指。 清潔に切り揃えられた爪。骨ばっているけれど無骨すぎない、洗練されたフォルム。関節の一つ一つが美しく、まるでピアニストの手のようだ。


コポコポ……とコーヒーが注がれる。 その静寂の中、蓮見がふと、こちらを向いた。


視線が、明里の胸元あたり——いや、無意識に擦り合わせていた手元に落ちる。


(……え?)


明里はハッとして、自分の手を見た。


緊張で、後ろに隠していたはずの手が、いつの間にか前に出ていた。 キーボードを叩きすぎて乾燥し、ささくれ立った指先。爪の周りは荒れて、一つ、小さな傷ができている。さっきティッシュで唇を擦った時に、ささくれが引っかかったのだ。


そして、握りしめたままの高級そうな口紅のケース。


蓮見のあの美しい指と比べると、自分の手の「生活感」と「手入れのなさ」が、あまりにも恥ずかしかった。


『そういう細かい所をサボるなって言ってんの』


湊の小言が、またリフレインする。


(見ないで……!)


明里は反射的に、両手をカーディガンの裾ごと掴んで、ぐっと下へ引っ張った。 袖の中に手を引っ込める。まるで冬眠前の小動物が、外敵から身を隠すように。


「あ、あの……」


視線の意味を「汚れを見られた」と解釈したまま、明里は蚊の鳴くような声で言い訳をした。


「そろそろ古くなってきたので……このカーディガン。買い替えようと思ってて。お見苦しくてすみません」


蓮見はきょとんとして、それから少し困ったように笑った。


「え? いや、そんなこと思ってないよ。物を大切にするのはいいことだ」


コーヒーカップを両手で包むように持ち、蓮見がこちらを向いた。 眼鏡の奥の瞳が、明里を真っ直ぐに見つめる。


「それに……小日向さんは、本当に『安心』できるな。いてくれるとホッとするよ」


ドクン、と心臓が大きく鳴った。


けれどそれは、ときめきと同時に、胃の底に鉛を落としたような感覚でもあった。

安心できる。 ホッとする。


その言葉は、職場における最大の賛辞かもしれない。 でも、二十三歳の女にとっては、呪いの言葉にも聞こえた。


(それはつまり——ドキドキしないってこと)


異性としての緊張感も、駆け引きも必要ない、「便利な存在」だということ。


コンビニのおにぎりみたいな安心感。 いつでもそこにあって、期待通りの味がして、でも特別じゃない。 高級フレンチのような高揚感は、私にはない。


誰かの「特別」にはなれない。 私はただの、「いてくれると助かる」存在でしかないのだ。


「……ありがとうございます」


曖昧に口角を上げて笑うのが精一杯だった。 表情筋が強張って、うまく笑えている自信がない。


「じゃあ、戻るね。あまり無理しないで」


蓮見はひらりと手を振って、給湯室を出て行った。

残されたのは、コーヒーの香りと、消化しきれない感情だけ。

明里は壁に背を預けて、深く息を吐いた。


手の中には、まだあの口紅がある。


(……やっぱり、湊に返そう)


こんなもの、私には似合わない。 「安心できる女」に、華やかな色は必要ない。

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