ep.3

 駐車場のアスファルトに、朝露が薄く残っていた。

 踏み固められた地面は夜の冷えをまだ抱えたままで、靴底からじわりと冷たさが伝わってくる。靄の残る空気の中で、金属だけが先に光を返していた。春の朝は、思ったより冷たい。


 校舎に近い列で、ひとつだけ目を引く車がある。


 黒の90系クレスタ。

 艶を残したボディに、低く抑えられた車高。フロントリップは地面すれすれで、止まっているのに、前へ踏み出す姿勢だけが残っている。

 派手さはない。だが、乱れもない。角度も、間隔も、車止めとの距離も、狙って置かれたように揃っていた。


 何人かの学生が歩きながら一度だけ目を向け、すぐに逸らす。

 それ以上、誰も触れなかった。


 その少し外側の空き区画に、デザートカーキのスバルXVが滑り込む。

 白線を踏まず、無理のない角度で止まった。


 エンジンを切ると、車内の振動がすっと消える。

 次の瞬間、乾いた排気音が一度だけ吠えた。90クレスタの方からだった。


「……あ?」


 声はすぐ近くから聞こえた。


 玲が顔を上げると、ワークジャケットを羽織った男が立っていた。

 同じ整備技術学科の、水原圭吾。


 ポケットに手を突っ込んだまま、顎をわずかに突き出している。

 視線はXVをなぞり、駐車位置で止まり、最後に玲へ戻った。


「……なんで、そこ停めてんだよ」


 強くはないが、軽くもない声だった。


 周囲の学生が一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を切る。


 玲はドアを開け、地面に足を下ろした。

 濡れたアスファルトの冷たさが、靴底から上がってくる。


「空いてたから」


 それだけ答える。


 水原の視線が、わずかに揺れた。


「は?……普通、ここじゃねぇだろ。

 SUVは、もっと端だ」


 玲は周囲を一度見回す。

 白線。区画。校舎までの距離。どれも変わらない。


「通学用なら、問題ないと思うけど」


 声は淡々としていた。


 水原の口元が歪む。


「……そういう話じゃねぇんだよ。

 走る気ない車が、前に来るなって話だ」


 それ以上は続かなかった。


 慶介が運転席側から降り、二人の間に立つ。


「まあまあ。朝だしさ。混んでるわけでもないし」


 水原は一度だけ慶介を見て、すぐに玲へ視線を戻した。


「ちっ……」


 一歩引く。だが、そのまま終わらせる気はないようだ。


「じゃあ次の週末、新港出ろよ。

 俺のクレスタで相手してやる」


 一拍置き、吐き捨てる。


「オートマで走った気になってる奴に、

 本物のFRってやつ、教えてやるからさ」


「──俺はいいや。ひとりで行きなよ」


 玲は即座に返した。


 水原は舌打ちし、校舎の方へ歩き出す。


「相変わらずダセエよな、お前」


 吐き捨てるように言い、歩みを止めない。


 90クレスタの横を抜けたところで一度だけ振り返り、


「走り屋の風上にも置けねえよ、ホント」


 そう言って視線を切った。


 その背中が人の流れに紛れると、止まっていた音が遅れて戻ってくる。


「……絡まれたな」


 慶介が小さく言った。


「絡んだって言うのか、あれ」


 玲は首を傾げながらゆっくりと歩き出した。


 校舎のガラスが朝日を弾き、白く光っている。

 玲は歩調を変える事なくその中へ向かった。


 少し離れた場所で、声が落ちてくる。


「……今の、何?」

「また水原、藤井に絡んでたよ」

「スポーツカー乗ってるヤツ全員、走り屋だと思ってんだろ。あいつ」


 ひそひそとした声は、悪意というより呆れに近かった。

 誰も止めようとはしない。ただ、関わらない。


 慶介が歩調を緩め、隣を歩く玲に目を向ける。


「そういえばさ。水原って、一年の頃はあんな絡み方してなかったよな」


 玲は一瞬考えてから、短く息を吐いた。


「まあね。でも……興味のない動画を、休み時間ごとに見せられたら、誰だって距離置きたくなるよ」


「興味ない動画?」


 慶介が首を傾げる。


「どっかの埠頭で撮ったようなドリフトとか。煙モクモクのやつ」


「あー……」


 慶介はすぐに察したように頷いた。


「お前、そういうの全然ハマらないもんな」


「それをさ」


 玲は淡々と続ける。


「毎回観させられて、『カッコいいよな!』『テンション上がるよな!』って言われ続けたら、ある意味拷問だよ」


 二人は教室棟の昇降口に入る。

 床に残った湿気が、靴底でわずかに鳴った。


「でもさ」


 階段を上りながら、慶介が言う。


「お前、週末のカーミーティング? 誘われて、一緒に行ってたよな」


「うん。最初で最後」


 玲は手すりに触れず、そのまま段を上る。


「水原って、相当目立ちたがり屋だからさ。会場借りてやってる小さいミーティングで、いきなりコール切ったり、定常円やったりするんだよ」


「……うわ」


 慶介の表情が、まるで信じられないと言わんばかりに口を開けている。


「一緒にいる俺が、すごく恥ずかしくなって」


 玲の言葉ひとつひとつに慶介の表情が、硬くなっていく。


「やっぱさ」


 玲は、特別な調子もなく言った。


「国内B級、落ちてからじゃないかな。嫌な絡み方になったの」


「え、あれって落ちるもんなの?」


 慶介が思わず足を止める。


「俺の中じゃ、ただの座学講習だなーって認識だったんだけど」


「俺もそう思ってたよ」


 玲は少しだけ視線を逸らし、


「『旗の意味が分かんない』って言われてさ。あの時、俺どういう顔すればいいか分かんなくて」


 二人は階段を上りきり、二階の廊下に出る。

 窓から差す光が、床を白く伸ばしていた。


「で、お前はちゃっかり受かってた、と」


 慶介がまとめるように言う。


 玲は小さく頷いた。


「まあ、それでもさ」


 慶介が足を止める。

 半拍遅れて、玲も立ち止まった。


「いきなり嫌な絡み方する方が、どうかしてるけどな」


 玲は返事をしなかった。

 視線を落としたまま、口元だけがわずかに動く。


「……それと」

 玲は、少しだけ間を置いてから続けた。

「あのカーミーティングの後、警察来たらしいんだよね」


 慶介が眉をひそめる。

「マジで?」


「主催者から、連絡来なくなった。俺も一緒にいたってだけで」


 慶介は一瞬、何か言いかけて、やめた。

「……お前、何もしてないのに」

「まあ、仕方ないよ」


 玲は肩をすくめる。

「主催者側からしたら、リスク避けたいだろうし」


 慶介は何も言わず、教室のドアを開けた。


 中から朝のざわめきが流れ込んできた。


「おはよう」


 誰かが返し、別の誰かが手を挙げる。


 玲はその流れに紛れるように、自分の席へ向かった。


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