第3話 直士は残業していきたい
今日は1時間、19時まで残業することに決めた。明日の土曜は午前中から読書会に参加する予定だが、会場は近いため休息時間は十分に確保できる。残業しても響くことはない。
「……先輩、まだやっていくんですか?」
気付くと玉城さんが隣に立っていた。
「はい、少しでも巻きたいので」
言い方がマズイと遅れて自覚する。これでは、また玉城さんに手が遅いと気に病ませてしまう。239年の件もある、言い方には気を付けないと。
「念のためですよ。それに残業代を稼ぐ意図もありますから、どうぞお気になさらず」
「……そうですか」
不意に彼女が俺の頭に顔を寄せてきた。
「やっぱり、コーヒーの匂いがしますね」
拭き取ったとはいえ、こびりついた成分までは落とせない。ゆえに頭皮からコーヒーの香りがするという珍妙な状態になっているわけだ。
「本当に、すみませんでした」
言いながら、彼女はゆっくりと頭を下げる。
「いえ、別に」
過失とは言えるが故意ではない。であるならば、もう謝罪は必要ない。それをどう
言えば伝わるだろうか。彼女にはにこやかな顔でいてもらった方が安定するのだが。
「今さら、どうでもいいですよ」
本当にどうでもいいことだ。大げさな言い方になるが、贖罪はもう十分済んでいる。
「…………」
見ると、彼女の円らな瞳がきゅっと縮まった。眉間を寄せ、まるでくしゃみを我慢するかのような顔になった。無言で体を翻し、手早く帰り支度を始める。タイムカードを押す機械音が響く。
「お先に失礼します」
「お疲れ様です」
玉城さんは固い声色でワークスペースを後にして行った。
……うまく伝わらなかったかもしれない。どのみち、土日で強制的に職場から離れる。時間が解決してくれる。月曜日には俺も彼女もまた違う心持ちとなっているだろう。
「さて」
専用ソフトに取り込んであるデータファイルを開き、ざっと契約書の内容を読み込んで、必要な情報のみを項目に入力する。作業自体は難しくない。だが、文書の内容を素早く読み取って理解するのには少しコツがいる。そもそも契約書特有の堅い文章も慣れないと読みにくい。また、一口に契約書と言っても様々で、分かりやすい設置契約書から『災害時における飲料水の提供に関する協定書』といった行政に関連した文書もあり、自販機1台でも多岐に渡る。
とはいえ、半年もやれば慣れるものだ。
――と、5レコード分入力したところで、唐突に尿意が上がってきた。エレベーターホールに出て左、共用スペースにあるトイレに向かう。用を足して出ると、ふと、声が聞こえてきた。
「神原さんにはオレからもフォロー入れとくからさ」
松山さんの声だ。夜に差し掛かり、人の行き来のないエレベーターホールでは小さな声でもよく聞こえる。何か困り事でも起きているのだろうか? トイレとは反対の屋内階段側へと足を向けた。
「……ほんと、うち、無理……」
今度は涙声が聞こえる。確実に玉城さんの声だ。曲がり角の壁に背を預け、そっと向かいの奥を覗く。
スプリンクラー制御弁室を開けるためだけに作られた細長い空間に、2人はいた。松山さんの刈り上げた後頭部が見える。その前には、玉城さんが両手で自分の顔を覆っていた。
「頑張って明るく振舞ってたけど、苦しかった……先輩が怒ってくれた方がまだ楽なのに……」
鼻水をすすり、指でせわしなく涙を拭っている。
「一旦落ち着けよ。オレは日菜乃の味方だから。神原さんのことなら大丈夫だって」
言いながら、松山さんが彼女の肩に手を置く。
「…………」
床はタイルカーペットではあるが、俺は足音をさせないように細心の注意を払ってワークスぺースに戻った。
言動から判断するに……俺は玉城さんに多大なストレスを与えているようだ。確かに、求めていないことをわざわざ言ったり、申し出を逆に断ったりと、合わせられていない。
独り考える。申し訳ないが、謝るよりもまず木村さんに対処してもらうのが適切であり、筋だろう。俺にできることは、ない。席に戻り、段取りを考える。個別のマインで事情を話し、木村さんと玉城さんで面談してもらう。それまで俺は有休でも取り、姿を見せないほうが良いだろう。
だとすると、この残業でより多く巻いておく必要がある。
「――フー」
予定よりさらに1時間多く残業した。さすがにこれ以上は集中力が持たない。
残業申請用紙に記入する。残業代の支給には木村さんの押印がいる。
だが、まだ社内にいるだろうか。後日でも問題ないが、月曜日から休むことにするなら今もらっておいた方がいいし、いるなら軽くでも玉城さんのことを話せるかもしれない。いなければデスクの上に置いておこう。
開発フロアにはまだ働いているグループがあり、ワークスペース内だけ戸締りして、4階に上がる。すでに施錠されているかもと思ったが、幸いまだ灯りが点いていた。共通のカードキーで入室する。
広いオフィスで黒髪ボブの女性が1人、デスクに座っていた。間違いなく木村さんだ。大股で彼女の元に寄る。
「お疲れ様です。木村さ――」
その瞬間、思い出す。
そういえば、今日マチアプの人と会うと言っていなかったか?
「…………神原くん」
木村さんが俺の方を向く。瞳に涙を溜めながら。
「……私って、間違ってるのかな……?」
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