第20話 洋子の決断

臨床試験の朝は、世界の終わりが近いことなど微塵も感じさせないほど、残酷なまでに静かで美しい朝だった。

研究棟の最上階にある特別病室。そのカーテンの隙間から、淡く柔らかな冬の陽光が差し込み、床に白い帯を作っている。窓の外では、感情を持たない薄い雪が、音もなく舞い続けていた。

病室は清潔で、静かだった。機器の低い駆動音と、時折聞こえる廊下の足音だけが、沈黙を破る。その静けさは、嵐の前の静けさのようだった。

世界中の空から降り注ぐこの六花結晶が、今この瞬間も誰かの記憶を奪い、誰かの存在を「空席」に変えているというのに。窓枠に積もったわずかな雪片だけは、まるで洋子の決意を祝福するかのように、あるいは彼女のために残された最後の煌めきのように、無垢な輝きを放っていた。

洋子は、ベッドの上で背筋を伸ばして座っていた。病人のような弱々しさはない。むしろ、これから戦いに向かう戦士のような、静かな覚悟が感じられた。

洋子は、サイドテーブルに置かれたタブレット端末を手に取り、画面に表示された自分自身のデータを静かに見つめていた。そこには、ここ数日間の脳波ログと、現在も彼女の脳内で刻々と変化し続けている六花結晶の観測データが、冷徹な数値として並んでいた。

グラフは複雑な曲線を描いている。上下に揺れ、時折鋭い変動を見せる。それは、洋子の脳内で起きている戦いを、視覚化したものだった。

回復したとはいえ、一度崩壊の淵を覗いた結晶構造は、依然として不安定だった。数値が、それを明確に示している。健康な人と比べて、揺らぎの幅が大きい。

(……脆いな)

洋子は指先で画面をなぞった。その指先は、冷たかった。本来なら強固であるべき中心核の周りで、記憶を構成する枝が微かに震えている。残ってほしい大切な思い出ほど、雪の干渉を受けて揺らぎ、どうでもいいノイズのような情報ほど、妙にしぶとく残ろうとする。その矛盾した現象に、胸の奥がチクリと痛んだ。

洋子は目を閉じた。母の顔。父の声。友人たちとの思い出。そして、浩との時間。それらが、まだ残っている。しかし、いつまで保てるのか。その不安が、常に心の片隅にある。

自分の中にある「私」という輪郭が、いつまた霧散してしまうか分からない恐怖。けれど、不思議と手足の震えはなかった。今日、この身に受けるワクチンが、その恐怖を終わらせるための唯一の希望だと知っているからだ。

洋子は深呼吸をした。恐怖はある。しかし、それ以上に、希望がある。今日、全てが変わる。その確信が、彼女を支えていた。

窓の外を見ると、雪が降り続けている。しかし、その白さは、もう絶望の色ではない。ただの自然現象。美しい冬の景色。それだけだ。

「……早いな」

電子ロックが解除される低い音と共に、扉が開いた。洋子は振り返った。

浩だった。

彼は努めて平静を装っていたが、その顔色は隠しようもなく悪かった。目の下には濃いクマが刻まれ、無精髭も伸びている。昨夜の倫理委員会での激論の後、一睡もせずにモニタリングシステムの最終調整をしていたことは明白だった。

浩の目は赤く、疲労の色が濃い。しかし、その奥には、強い意志が宿っている。洋子を守る。その決意が、彼を支えていた。

彼はゆっくりとベッドサイドまで歩み寄ると、洋子の手からタブレットをそっと取り上げ、サイドテーブルに戻した。そして、その冷たい手を自分の両手で包み込むように握った。

浩の手は温かかった。その温もりが、洋子の冷えた手に伝わってくる。生きている証。二人が、まだここにいる証。

「……本当に、やるつもりなんだな?」

浩の声は掠れていた。それは確認ではなく、消えそうな自分自身の心を繋ぎ止めるための問いかけのように聞こえた。浩は、不安だった。失う恐怖が、彼を苦しめている。

洋子は、彼の手の温もりを感じながら、静かに微笑んだ。その笑顔は、穏やかで、揺るぎない決意に満ちていた。

「昨日と変わらないわ。……ううん、もっと確信してる」

彼女は浩の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。その目には、恐怖はなかった。ただ、強い意志だけがあった。

「これは、私がやりたいことだから。誰のためでもない、私自身が、あなたとの記憶を守りたいから選んだ道よ」

洋子の言葉は、シンプルだった。しかし、その言葉には、全ての想いが込められていた。浩との思い出。共に過ごした時間。それらを、失いたくない。だから、戦う。

浩は顔をしかめ、何かを堪えるように強く目を閉じた。握られた手に、痛いほどの力がこもる。感情が溢れ出しそうになる。しかし、今は耐えなければならない。

「……確率論の話なんかしたくない。でも、君を失う可能性が……ゼロじゃないことは、俺が一番よく分かってる」

彼は開発者だ。このワクチンが、脳というブラックボックスにどんな影響を与えるか、そのリスクを誰よりも熟知している。もし失敗すれば、洋子の精神は今度こそ不可逆的な崩壊を起こし、永遠に帰ってこないかもしれない。

浩の脳裏には、最悪のシナリオが浮かんでいた。洋子が目を開けても、そこに洋子がいない。空虚な目。反応のない表情。それを想像するだけで、胸が締め付けられる。


「ええ、そうね」

洋子は淡々と、けれど優しく答えた。その声には、浩の不安を受け止める温かさがあった。

「でも、放っておいたら……私は遅かれ早かれ消えてしまう。雪に飲まれて、浩くんのことを忘れて、ただの抜け殻になってしまう。……そんな最後を待つくらいなら、私は戦って、自分の意志で未来を選びたいの」

洋子の言葉は、現実的だった。感傷に流されない、冷静な判断。しかし、その奥には、熱い想いがある。自分の運命を、自分で決める。それが、洋子の選択だった。

洋子は空いた片手を伸ばし、浩の頬に触れた。その手は冷たかったが、優しかった。

「大丈夫。……あなたがモニターを見ていてくれるんでしょう? 何かあったら、すぐに止めてくれる。私は世界で一番優秀な科学者を信じてるんだから」

洋子の言葉は、浩への絶対的な信頼を示していた。一人ではない。浩がいる。それが、洋子の支えだった。

浩は目を開け、洋子の掌に自分の頬を押し付けた。その温もりを、しっかりと感じ取ろうとするように。

「……ああ。約束する。一瞬たりとも目を離さない。0.1秒でも異常値が出たら、強制的に実験を中止する」

それは、恋人としての誓いであり、科学者としての覚悟だった。浩は、全力で洋子を守る。その決意が、言葉に込められていた。

二人は、しばらく黙って見つめ合っていた。言葉はもう、必要なかった。互いの想いは、既に伝わっている。

時計の針が進む。時間は、容赦なく過ぎていく。やがて、実験の時間が近づいてきた。

数時間後。

臨床試験は、研究棟の地下深くに設けられた高度無菌治療室(クリーンルーム)で行われた。

壁面を埋め尽くす大型モニターには、洋子の脳活動、心拍数、血中濃度、そして結晶密度指数がリアルタイムで表示され、数名の医療スタッフと研究者たちが緊張した面持ちで計器を監視している。

室内は、ピンと張り詰めた空気に満ちていた。誰もが、歴史的な瞬間を目撃しようとしている。成功すれば、人類に希望をもたらす。失敗すれば――誰も、その可能性を口にしなかった。

部屋の中央にある処置台に、洋子は座っていた。白い病衣を着た彼女は、小さく見えた。しかし、その背筋は真っ直ぐで、揺るぎない意志を感じさせた。

洋子は深呼吸を繰り返していた。緊張を和らげ、心を落ち着かせる。恐怖はある。しかし、それに支配されてはいけない。冷静に、自分の状態を観察する。それが、今の自分の役割だ。

ガラス越しのアジャストルームでは、浩がメインコンソールの前に立ち、鋭い視線を送っている。その目は、洋子から一瞬たりとも離れない。モニターと洋子を、交互に見つめている。

浩の手は、コンソールの上に置かれていた。緊急停止ボタンに、いつでも手が届く位置に。もし異常があれば、即座に反応する。その準備は、完璧だった。

村上も、隣のコンソールでデータを監視している。その表情は真剣で、一つ一つの数値を見逃さないように集中している。

岸本が、滅菌された白衣と手袋を身につけ、慎重な足取りで洋子のそばに立った。その手には、淡い光を放つ透明な液体が入ったシリンジが握られている。

第二世代ワクチン『Mnemosyne Ver.2.0』。

この小さなシリンジの中に、人類の希望が詰まっている。何週間もの研究。何千時間もの努力。そして、長谷川教授の想い。全てが、この液体に凝縮されている。

「手順を確認します」

岸本の声は、プロフェッショナルとしての冷静さを保っていたが、その奥には張り詰めた糸のような緊張感があった。彼女の手も、僅かに震えている。

「情動誘導型結晶安定化剤を、静脈内へ極めて緩慢な速度で投与します。……もし、結晶の揺らぎが許容範囲を超えて急激に増幅した場合は、即座に中和剤を投入し、逆同調(カウンター・シンク)で脳波を強制鎮静させます」

岸本の説明は、明確だった。全ての手順が、事前に何度も確認されている。しかし、それでも不安は消えない。

洋子は深く息を吸い、肺の中の空気をゆっくりと吐き出した。心拍数を落ち着かせる。冷静に。自分を、実験対象として客観視する。

「分かりました。……準備はできています」

洋子の声は、落ち着いていた。恐怖を乗り越えた、静かな決意がそこにあった。

彼女は浩の方を見た。ガラスの向こうで、彼が小さく、力強く頷くのが見えた。その頷きが、最後の勇気になった。

洋子は浩に向かって、小さく微笑んだ。大丈夫。信じてる。その想いを、笑顔に込めた。

洋子は袖をまくり上げ、白く細い腕を岸本の方へ差し出した。その腕は震えていなかった。覚悟は、既に決まっている。

「では……開始します」

岸本の合図と共に、室内の照明がわずかに落とされ、モニターの光だけが青白く浮かび上がった。全員の視線が、洋子に集中する。

アルコール綿の冷たい感触。そして、鋭く細い針先が皮膚を突き破る、ちくりとした痛み。その微かな音が、静まり返った室内に吸い込まれていく。

洋子は目を閉じた。痛みは、一瞬だった。しかし、これから何が起きるのか。その未知が、緊張を高める。

「投与開始」

岸本の指がシリンジのプランジャーを押し、無色透明な液体がゆっくりと、一滴ずつ洋子の血管へと流れ込んでいく。

洋子は目を閉じ、自分の体内を巡る「希望」の感覚に意識を集中させた。冷たいような、それでいて熱いような不思議な奔流が、腕から肩へ、そして首筋を通って脳へと昇っていく。

洋子は、自分の体の変化を感じ取ろうとした。血流。心拍。呼吸。そして、脳内の感覚。全てに、意識を向ける。

液体が、脳に達した。その瞬間、何かが変わった。

その瞬間だった。

「……っ!」

メインモニターのアラートが短く鳴り、浩の息が止まった。その音が、室内に響き渡る。

村上もまた、食い入るように画面に釘付けになった。その顔が、驚きに染まっている。

映し出されていた洋子の脳内六花結晶のシミュレーション映像に、明らかな変化が現れたのだ。

不安定に震えていた結晶の中心部が、ふわりと光を散らすように、大きく、ゆったりと揺れ始めた。それは崩壊へ向かう無秩序な振動ではない。まるで春風を受けた花弁のように、あるいは音楽に合わせて踊るように、規則的で美しい「ゆらぎ」だった。

画面を見つめる全員が、息を呑んだ。これは、予想していた反応とは違う。しかし、悪い変化ではない。むしろ――。

「……動的変化(ダイナミクス)、確認」

岸本が数値を読み上げる声が、わずかに上ずった。興奮を抑えきれない。

「揺れの振幅、微上昇……! ですが、崩壊パターンではありません。これは……」


「……信じられない」

村上が、食い入るようにモニターを見つめたまま呟いた。

画面の中で、洋子の脳内構造を示す六花結晶のモデルは、かつてない動きを見せていた。

外部から絶えず降り注ぐ「雪」の干渉圧力――すべてを均一な白へ塗り潰そうとする力――に対し、結晶の枝が柔らかくしなり、そのエネルギーを受け流しているのだ。

硬く強固な壁を作って弾き返すのではない。風にそよぐ柳の枝のように、あるいは水面に浮かぶ木の葉のように、力を吸収し、分散させ、そして元の形へと戻る。

浩は息を詰めてその様子を見守っていた。モニターに映し出される結晶構造の変化は、まるで生き物のようだった。ワクチンが洋子の脳内で作用し始めてから、すでに十二分が経過している。理論上は十五分でピークを迎える。あと三分だ。

「神経伝達物質のバランスは?」

浩が低い声で尋ねた。隣のコンソールを操作していた若手研究員が、緊張した面持ちで答える。

「セロトニン、ドーパミン、ともに正常範囲内です。オキシトシンの濃度が予想よりやや高めですが……これは許容範囲です」

「心拍数は?」

「毎分六十八。安定しています」

「脳波パターンは?」

「アルファ波優位。……リラックス状態を維持しています。異常な興奮や抑制は見られません」

浩は小さく頷き、再びメインモニターに視線を戻した。洋子の記憶結晶を示す立体映像が、ゆっくりと回転している。その六つの枝は、まるで呼吸をするかのように、微かに伸縮を繰り返していた。

「動的平衡(ダイナミック・イクイリブリアム)……」

浩が、祈るようにその単語を口にした。

「これだ。俺たちが求めていたのは、この『折れない柔らかさ』だ」

村上が眼鏡を押し上げ、データの数値を読み上げた。

「記憶結晶の安定度指数、九十二パーセント。昇華リスク係数は……三パーセントまで低下しています。成功です、浩さん。ワクチンは確実に効いている」

その言葉を聞いても、浩の表情は緩まなかった。彼の視線は、ガラス窓の向こう、クリーンルームの中央に横たわる洋子の姿に注がれたままだった。白い処置用ガウンに身を包んだ彼女は、まるで深い眠りについているかのように静かだった。

岸本医師がクリーンルーム内で洋子のバイタルサインをチェックしている。点滴のラインから透明な液体が、規則正しく洋子の体内へと送り込まれている。第二世代ワクチン。感情による記憶安定化のメカニズムを応用した、人類初の記憶結晶保護薬。

浩は拳を握りしめた。爪が掌に食い込むほど強く。

もし失敗したら。もし洋子の記憶が固定化されすぎて、彼女が新しい記憶を作れなくなったら。あるいは逆に、結晶が崩壊して彼女の存在そのものが全員の記憶から消えてしまったら。

その可能性を考えるだけで、浩の心臓は締め付けられるように痛んだ。

「残り時間、一分三十秒」

研究員の声が、静まり返ったアジャストルームに響いた。


クリーンルームの中、洋子は不思議な浮遊感の中にいた。

痛みはない。寒さもない。

ただ、頭の中が澄み渡っていく感覚があった。

さっきまで脳の裏側に張り付いていた、あの薄氷のような不安――「私」が欠け落ちていく恐怖――が、温かい陽射しを浴びたように溶けていく。

そして、その溶けた水が、乾いた記憶の土壌を潤していくのが分かった。

洋子は意識の奥深くで、自分の記憶を一つ一つ確かめていた。幼い頃の記憶。小学校の運動会で転んで泣いた日。中学で初めて科学の面白さに目覚めた瞬間。大学の入学式。研究室に配属された日。そして――浩と初めて出会った、あの雨の日。

記憶の一つ一つが、まるで古いフィルムを現像し直したかのように、鮮やかな色を取り戻していく。忘れかけていた細部までが、驚くほどクリアに蘇ってくる。

雨に濡れた浩の髪。彼が差し出してくれた傘。その時の彼の、少し困ったような笑顔。

(……見える)

洋子は目を閉じたまま、心の中で反芻した。

昨日の晩御飯の匂い。

一週間前の実験失敗の悔しさ。

浩くんと初めて出会った日の、雨の匂い。

そして、長谷川教授の、あの穏やかな笑顔。

それら全ての記憶が、今までよりも遥かに鮮やかな色彩と輪郭を持って、脳内に「定着」している。雪の白さに埋もれることなく、確かな質量を持ってそこに存在している。

洋子は深く息を吸い込んだ。肺に空気が満ちていく。生きている。確かに生きている。そして、自分が誰であるかを、はっきりと自覚している。

名前は氷室洋子。二十八歳。気象学を専門とする研究者。好きな食べ物はカレーライス。苦手なものは納豆。趣味は読書と、雪の結晶の観察。大切な人は――

(浩くん)

その名前を思い浮かべた瞬間、洋子の胸の中で何かが温かく灯った。まるで冬の夜に暖炉の火が燃え上がるような、優しくて力強い熱。

これが、記憶を繋ぎ止める力なのだと、洋子は直感的に理解した。人と人との絆。感情。愛情。それらが記憶の結晶を支え、雪の侵食から守っているのだ。

「……洋子さん」

ヘッドセットから、岸本の声が聞こえた。

「聞こえますか? 今の気分は?」

洋子はゆっくりと目を開けた。その瞳は、長い冬を越えた湖のように澄んでいた。

「……クリアです。すごく、はっきりとしています」

彼女は自分の掌を見つめ、握りしめた。

「恐怖がありません。外の雪が、私の記憶を引っ張ろうとする感覚が……もう、感じられません。私は私として、ここに留まっていられます」


その言葉を聞いた瞬間、アジャストルームで爆発のような歓声が上がったわけではなかった。

ただ、浩が崩れ落ちるようにコンソールに手をつき、村上が眼鏡を外して目頭を押さえ、スタッフたちが静かに肩を抱き合った。

それは、あまりにも重いプレッシャーから解放された者たちの、深い安堵の吐息だった。

浩は両手で顔を覆い、震える息を吐いた。涙が頬を伝い落ちる。恥ずかしさも何もなかった。ただ、洋子が無事だという事実が、彼の全身から緊張を奪い去っていった。

「浩さん……」

村上が、眼鏡を拭きながら声をかけた。その声も僅かに震えていた。

「私たちは……やりましたね。人類は、雪に勝ったんです」

浩は顔を上げ、赤くなった目で村上を見た。そして、力なく笑った。

「ああ……まだ信じられないけど。でも、確かに……洋子は戻ってきた」

モニターの中では、洋子の記憶結晶が安定した輝きを放っていた。もう揺らぎはない。外部からの雪の圧力を受けても、その形を保ち続けている。まるで、長い冬を耐え抜いた老木のように。

「……実験、成功です」

岸本が静かに宣言し、洋子の腕から点滴のラインを外した。

「お疲れ様でした。……あなたが、世界で最初の『雪に勝った人間』です」

洋子は岸本の顔を見上げ、微笑んだ。その笑顔には、もう不安の影はなかった。

「ありがとうございます、岸本先生。……怖かったけど、やってよかった」

「あなたの勇気が、世界を救うんです」

岸本はそう言って、洋子の手を優しく握った。その手は温かかった。生きている人間の、確かな体温だった。


一時間後。

精密検査を終えた洋子は、休憩室のソファで温かいココアを飲んでいた。

カップを持つ手は、もう震えていない。頭の中もクリアだ。自分が誰で、どこにいて、何をしてきたのか。全てが明瞭に把握できている。

窓の外では、相変わらず雪が降り続けていた。けれど、もうあの雪は洋子を脅かさない。洋子の記憶を奪おうとする白い手は、もう彼女に届かない。

ドアが開き、浩が入ってくる。

彼は洋子の姿を見るなり、言葉もなく歩み寄り、彼女を強く抱きしめた。

「……浩くん、苦しいよ」

洋子は笑いながら、彼の背中に手を回した。ココアのカップは、テーブルの上に置いていてよかったと思った。

「……怖かった」

浩の声が耳元で震えていた。

「理論上はいけると分かっていても……万が一、君の記憶が変質してしまったらと思うと……生きた心地がしなかった」

洋子は浩の背中を、ゆっくりと撫でた。まるで怯えた子供をあやすように。

「でも、私はここにいるよ。ちゃんと、浩くんのことも覚えてる。全部、覚えてる」

「……本当に?」

「うん。初めて会った日のこと。雨が降ってて、私が傘を忘れて困ってたら、浩くんが半分貸してくれた」

「……ああ」

「それから、一緒に雪の結晶を観察した日のこと。中谷宇吉郎の本について語り合ったこと。実験が失敗して二人で徹夜したこと。全部、全部覚えてる」

浩は洋子の肩に顔を埋めたまま、小さく頷いた。彼の肩が、小刻みに震えている。

「うん。……ありがとう、見ていてくれて」

洋子は彼の体温を感じながら、窓の外に目をやった。

分厚いガラスの向こうでは、相変わらず無慈悲な雪が降り続いている。

世界はまだ白いままだ。多くの人が「空席」になり、多くの記憶が失われている。

けれど、もう絶望ではない。

洋子の成功は、人類が反撃できることを証明した。雪に対抗する手段があることを示した。これから、この技術を世界中に広げていけば、消失現象を止められる。まだ消えていない人々を守れる。

そして、いつか――消えてしまった人々の記憶を、取り戻すことも。

「……浩くん」

洋子は彼の胸から顔を上げ、力強い瞳で言った。

「準備はできてるよね?」

浩は涙を拭い、いつもの不敵な笑みを浮かべた。

「ああ。ドローン部隊の編隊飛行プラン、散布エリアの選定、すべて完了している。……工場のラインもフル稼働だ。今夜から、この街の空に『記憶の雨』を降らせる」

洋子は頷いた。彼女の目には、もう迷いはなかった。

「じゃあ、始めよう。私たちの戦いを」

部屋の隅で、岸本が携帯端末を耳に当てていた。

「ええ……はい。臨床試験は成功しました。……直ちに全国のシェルターへワクチンの輸送を開始してください。これより、対雪大規模反攻作戦『ムネモシュネ』を発動します」

彼女は通話を終えると、二人に振り返った。

その表情には、初めて見るような清々しい決意が宿っていた。

「行きましょう。……私たちの世界を、取り戻しに」

洋子は立ち上がり、浩の手を取った。その手は温かく、力強かった。

浩も立ち上がり、洋子の手を握り返した。

岸本が二人に近づき、三人は並んで立った。

窓の外では、雪がまだ降り続けている。けれど、その雪はもう、彼らを止めることはできない。

三人は並んで廊下を歩き出した。

その足音は、もはや迷いなど微塵もなく、確かな未来へと向かう行進曲(マーチ)のように響いていた。

長い冬が終わる。

記憶という名の春が、もうそこまで来ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る