第35話 現場に立たせる

 偶然を装う必要があった。


 正面から引きずり出せば、佐伯は立たない。

 立たずに済む仕組みを、彼は熟知している。

 だからこそ、現場に「立ってしまう状況」を作らなければならなかった。


 その機会は、意外なほど早く訪れた。


 病院全体で行われる医療安全ラウンドの日程が、前倒しになったのだ。名目は「評価運用の確認」。参加者のリストに、佐伯の名前があった。しかも、リハビリテーション部の評価室を直接見学する予定になっている。


「来るぞ」


 成瀬が、短く言った。


「ええ」


 叶多は頷いた。

 これは、こちらが仕掛けたものではない。

 だが、逃すわけにはいかない。


 当日の朝、評価室はいつも以上に静かだった。器具の配置も、床のテープも、何一つ変わらない。それでも、全員が意識している。今日は「見られる日」だ。


 佐伯は予定通り現れた。

 白衣ではない。

 クリップボードを片手に、穏やかな表情。


「普段通りでお願いします」


 その一言が、空気を張り詰めさせる。


 評価対象は、前日から体調にムラのある男性だった。数値は基準内。歩行も可能。だが、集中が切れやすい。叶多は、その違和感を事前に成瀬と共有していた。


 評価が始まる。


 最初の数分は、問題ない。

 歩行も安定している。


 佐伯は、少し離れた位置で見ている。

 口は出さない。

 表情も変えない。


 折り返し地点に差しかかったとき、叶多は気づいた。

 患者の呼吸が、わずかに浅くなった。

 視線が、床から浮かない。


 止めるか。

 続けるか。


 いつもなら、迷わない。

 だが、今日は佐伯がいる。


 叶多は、あえて声をかけた。


「少し、どうですか」


「……大丈夫です」


 患者は、笑おうとした。

 その瞬間、肩が小さく揺れた。


 成瀬が、一歩近づく。


「一度、座りましょう」


 止めた判断だった。


 事故は起きない。

 転倒もしない。


 患者は、椅子に腰掛け、深く息を吐いた。


「すみません」


「いえ」


 叶多は、しゃがみ込む。


「今、どんな感じでしたか」


「……終わったと思って、気が抜けました」


 その言葉を、佐伯も聞いていた。


 評価は、そこで終了した。


 佐伯が、ゆっくりと近づいてくる。


「適切な判断だったと思います」


 その評価は、正しい。


「一点だけ、確認させてください」


 佐伯は、患者に向かって言った。


「今の状態は、評価中に予測できましたか」


 患者は、少し困った顔をした。


「分かりません。やってみないと……」


 佐伯は、頷く。


「つまり、結果論ですね」


 結果論。

 また、その言葉だ。


 叶多は、静かに言った。


「結果論ですが、繰り返されています」


「記録に残る形で、ですか」


「いいえ」


 佐伯の視線が、初めて叶多に向いた。


「人に残る形で、です」


 一瞬の沈黙。

 評価室の空気が、わずかに変わる。


「それは、管理できません」


 佐伯は言った。


「だから、現場に立っていただきました」


 叶多は、そう答えた。


 佐伯は、言葉を失ったように見えた。

 ほんの一瞬だが。


 彼は、現場に立った。

 判断が行われる瞬間を、

 整理される前の空気を、

 初めて、同じ高さで見た。


 手は、まだ汚れていない。

 だが、靴底に、確かに何かが付いた。


 佐伯は、何も言わずに評価室を後にした。


 成瀬が、低い声で言う。


「立たせたな」


「ええ」


 叶多は、息を整えた。


「逃げ場をなくしただけです」


 その日の夕方、医療安全管理部から連絡は来なかった。

 だが、沈黙は、否定ではない。


 現場に立った者は、

 もう同じ場所には戻れない。


 判断を、外から眺めることはできても、

 中に立って見た記憶は、消せない。


 その記憶が、

 次に何を引き起こすのか。


 叶多には、まだ分からなかった。

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