5-4 臆病な値付け、攻めの値付け

僕はチョークを握り直し、木の板に向かった。

会議室の全員が、固唾を呑んでその手元を見つめている。


「では、数字で未来を比べてみましょう」


木の板に、以下の見出しが書かれている。


『① 古い粉砕機を使い続ける』

『② 新しい機械を買い、代金をその月の費用にする』

『③ 新しい機械を買い、代金を時間で分ける』


「まず、1番目の『現状維持』です。ガルド親方、今の粉砕機は月に何回くらい止まりますか?」


「……調子がいい時でも、三日に一度は詰まるな。

 そのたびに約一時間は作業が止まる。ひどい時は半日動かねえこともある」


「ありがとうございます。では、平均して月に『丸二日分』は止まっているとしましょう」


僕は板に『稼働停止2日分』と書いた。


「機械が止まっていても、職人さんへの給料や家賃は発生します。

 何も生産していないのに、お金だけが出ていく。さらに言えば――」


僕はもう一つ、見落とされがちな数字を付け加えた。


『(もし動いていれば作れたはずの)魔石の売上』


「機械が動いていれば作れたはずの商品。これを作れなかったことも、工房にとっては『見えない損』です」


「見えない損……?」


モルガンが怪訝そうに眉を寄せる。


「はい。金庫からお金が減るわけではありません。

 ですが、『入ってくるはずのお金が入ってこない』のは、お金を失うのと同じことです」


僕は、部屋の隅で記録をとっていたルカに視線を向けた。


「ルカ。直近の帳簿だと、この機械の修繕費は月平均でどれくらいになってる?」


急に話を振られ、ルカが慌てて手元の帳面をめくる。


「あ、はい! えっと……直近三ヶ月だと、部品代と、鍛冶屋への依頼料で……ならすと、月あたり金貨1枚弱です!」


「ありがとう。では、修理代は金貨1枚としましょう」


僕は金額を確かめながら、板に数字を書き込んでいく。

修理代、空費された人件費、そして見えない損。それらを合計すると――。


「ざっくり修理代が1枚、止まっている間の人件費が2枚、作れなかった分の儲けが2枚。

 ――毎月の損は金貨5枚です」


「なっ……!?」


親方が絶句した。


「そんなにか!? 修理の部品代はせいぜい金貨1枚なのに?」


「ええ。目に見える部品代はそうです。

 ですが、止まっている時間に発生する給料や“見えない損”を含めると、この古い機械は毎月金貨5枚ずつ、工房の取り分を食いつぶしているのと同じなんです」


ガガガガ、と階下から異音が響く。

その音が、まるで商会の金貨を噛み砕く音のように聞こえ始めたのか、親方の顔色が青ざめた。


「次に、2番目の『今までのやり方』です。モルガンさんがおっしゃっていたやり方ですね」


僕はグラフのような線を描いた。

最初の月だけ、棒が極端に下に突き抜けている。


「買った月は、金貨360枚の大損失です。

 でも、翌月からは機械代がかかりませんから、いきなり儲けが増えて見えます」


セラフィナが、その極端な線の動きを見て溜息をついた。


「……これじゃあ、工房の実力が全然分からないわね。

 粉砕機を買った月だけ『大失敗』の月になって、その後はまるで『ただで道具を使ってボロ儲けしている』みたいに見える……」


「その通りです。これでは、本当に儲かっているのか、単に機械代を払っていないから儲かっているように見えるだけなのか、判断できません。

 そこで――3番目の『新しいやり方』です」


僕は最後の枠に数字を書き込んだ。


『機械代360枚 ÷ 120ヶ月(10年) = 月あたり金貨3枚』


「最新の機械代を、月々の費用として配分します。一ヶ月の負担は金貨3枚。

 これに、新しい機械の維持費を足しても、せいぜい金貨4枚程度。しかも魔力代は今より下がります」


僕は、1番の『現状維持』の数字と並べた。


 【現状維持による“余計な損”】:金貨5枚/月

 【新しい機械の“追加の負担”】:金貨4枚/月


「見てください。古い機械が生む“余計な損”と、新しい機械を持つための“追加の負担”を比べました。

 新しい機械を入れて、毎月少しずつ代金を負担すると考えれば、現状維持による“余計な損”より安く済むんです」


会議室がどよめいた。

360枚という巨額の壁に目がくらんで見えていなかった真実。


「高すぎて買えない」と思っていたものが、実は「買わない方が損」だったという逆転の論理。


「しかも、新しい機械なら生産量は倍になるので、売上は増える。

 ……どう考えても、この投資は『買い』です」


カツン、と僕がチョークを置くと同時に、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。

モルガンが、信じられないものを見る目で木の板を見つめている。


「……信じられない。だが、どこにも嘘がない。

 360枚の重みが消えたわけではないのに、これなら……払えると思えてしまう」


「嘘じゃありませんよ、モルガン」


セラフィナが静かに言った。

彼女は木の板の数字を指先でなぞりながら、ふと自嘲気味に笑った。


「……私、間違っていたわ」


「間違い、ですか?」


「ええ。今まで私は、高い道具を買うとき、怖かったのよ。

 金庫から大金が消えるのが怖くて……だから、無意識のうちに『早く元を取らなきゃ』と焦っていた」


彼女の視線が、僕の方へ――いや、過去の自分へと向けられる。


「360枚の機械を買ったら、その年のうちに360枚を回収しようとしていた。

 だから、商品の値段を上げていたのよ。

 『これくらい高く売らないと、機械代が払えない』って思い込んで」


セラフィナの告白に、ガルド親方が「あっ」と声を上げた。


「そういや……。前の機械を入れた時、嬢ちゃんは『卸値を2割上げる』って言ったな。

 あの時、いくつかの取引先が『高すぎる』って離れていったっけか」


「ええ。そうね」


セラフィナは痛ましげに目を伏せた。


「私は『高品質なものを作るにはお金がかかるから、仕方がない』と言い訳していたけれど……本当は違った。

 私が臆病だっただけ。十年使える機械の代金を、一年のお客さんに全部押し付けていただけだったのね」


臆病な値付け。

それは、投資のリスクを顧客への価格転嫁でカバーしようとする、守りの姿勢だ。


けれど、それを責めることはできない。

正しい「測り方」を持たなければ、誰だって減っていく金貨の恐怖には勝てないのだから。


「……誰も、セラフィナを責められませんよ」


僕はセラフィナに声をかけた。


「暗闇の中で走るときに、スピードを落とすのは当然です。

 でも、今はもうよく見える照明が手元にあります」


僕は木の板の余白に、新しい計算式を書いた。


『売値 = 材料費 + 職人の手間賃等 + 毎月の機械代(減価償却) + 適正な取り分』


「道具代を十年に薄めて、この式で商品の値段を計算し直してみてください。

 今までのように『早く元を取らなきゃ』と焦って上乗せしていた分が消えるはずです」


モルガンが素早く手元の羊皮紙で計算を始める。

羽ペンが走る音が、小気味よく響く。

やがて、彼は顔を上げ、驚愕に目を見開いた。


「……これは。

 今の売値より、3割近く安くできますぞ……!」


「3割!?」


親方が素っ頓狂な声を上げた。


「おいおい、そんなに下げて大丈夫なのか!?

 安物扱いされて、かえって信用を落とすんじゃねえか?」


「いいえ。大丈夫です」


答えたのは、僕ではなくセラフィナだった。

彼女は顔を上げ、かつてないほど力強い笑みを浮かべていた。


そこにはもう、迷いも後悔もない。あるのは、商人としての輝きだけだ。


「安売りをするんじゃないわ、親方。

 “本来の実力”どおりの値段に戻すだけよ」


彼女は扇子を閉じ、木の板の『生産量2倍』の文字を指し示した。


「3割安くすれば、今まで高いと諦めていた中堅の商会や、個人の冒険者たちも手が届くようになる。

 爆発的に注文が入るはずよ。そして、新しい機械なら、その注文を全部さばける」


セラフィナの声に熱が帯びる。


「単価は下がる。でも、数が売れる。

 トータルの儲けは、今よりずっと大きくなるはずよ。……これが、『攻めの値付け』ね」


今まで、エルドレッサの魔石加工商品は「高品質・高価格」でブランドを保ってきた。

だが、それは裏を返せば「市場を広げられない」という弱点でもあった。

もし三大商会が、品質そこそこで安い商品を大量に投入してきたら、負けていたかもしれない。


“減価償却”による「正しい原価」の把握。

それは、値下げの余地を生むだけでなく、「どこまで売値を下げても儲かるのか」を知るための防具でもある。

最強の盾を手に入れた彼女は今、それを武器に持ち替え、市場という戦場へ打って出ようとしているのだ。


セラフィナは、ふっと表情を引き締めて続けた。


「……もちろん、ただ楽観しているわけじゃないわ」


「え?」


「機械を買って毎月の費用を背負うということは、私たちが『止まれなくなる』ということよ。

 もし注文が来なくて機械が止まれば、帳簿の上で毎月かかる金貨3枚の費用が、そのまま丸ごと『無駄な出血』になる」


会議室の空気が、ピリリと張り詰める。

だが、彼女の瞳に怯えの色はなかった。あるのは、戦場を見据える指揮官の冷徹な光だけだ。


「機械を入れる以上、後戻りはできない。

 だからこそ――安くしてでも、圧倒的な数を作って、売り切る。

 数字の裏付けもある。勝てると踏んだからこそ決断するのよ」


僕は思わず息を呑んだ。

彼女は、僕が教えた計算式の意味を――その奥にある「リスク」の正体まで、瞬時に見抜いていたのだ。


減価償却は、「機械を動かそうが止めようが、毎月乗ってくる費用」――つまり固定費だ。

その荷物を背負い、退路を断って前に進む。


セラフィナはその恐怖に足踏みするのではなく、勝機に変えてみせた。

今の彼女は、荒波の海へ船を出す、真の経営者の顔をしていた。


「……面白そうじゃない」


部屋の隅から、短い笑い声が聞こえた。レティシアだ。

彼女は組んでいた脚を解き、立ち上がると僕を見つめた。


「……やっぱり、あなたの数字は劇薬よ。

 この国の経済を、根底からひっくり返すつもり?」


「ひっくり返すなんて……ただ、整理整頓しているだけです」


「ふふ。そういうことにしておいてあげる」


レティシアは愉快そうに目を細め、セラフィナに向かって言った。


「セラ。私、王都に戻るのが少し楽しみになったわ。

 次に会う時、貴女の商会がどれだけ化けているか……特等席で見せてもらうわね」


「ええ。期待していて、レティ。

 ……さあ、モルガン! すぐに新しい価格表を作成して!

 親方は職人たちに伝達! 明日から忙しくなるわよ!」


「承知しました!」


「おうよ! 腕が鳴るぜ!」


セラフィナの号令で、全員が一斉に動き出す。

その活気ある光景を見ながら、僕はこっそりと息をついた。


どうやら、僕の役目は無事に果たせたようだ。


* * *


一週間後。

エルドレッサ商会の店舗前には、早朝から異様な光景が広がっていた。


「おい、聞いたか? エルドレッサの魔石が安くなったらしいぞ」

「馬鹿言え。あそこの品質で安くなるわけがない。どうせB級品だろ?」

「いや、それが正規品なんだよ! しかも、まとめ買いならさらに勉強するって張り紙が……」


噂を聞きつけた商人や、武装した冒険者たちが、開店前から長蛇の列を作っている。


「……すごい人ね」


レティシアが呆れたように呟く。


「数字の魔法って、本当に恐ろしいわ」


「魔法じゃないわ」


セラフィナが、誇らしげに胸を張った。


「これは、私たちエルドレッサの『実力』よ。

 ……彼が、それを見えるようにしてくれただけ」


彼女は振り返り、僕に向けて最高の笑顔を見せた。

朝日に照らされたその表情は、どんな宝石よりも輝いて見えた。


「ありがとう、アラタ。

 あなたのおかげで、私は未来を買うことができたわ」


その言葉と笑顔に、僕は胸がいっぱいになり、ただ「はい」と頷くことしかできなかった。

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