第一章

一節


 もうお昼時、日当たりから察するに正午を回った頃合いだろうか。

 外の景色を眺めるには差し支えない時間帯。

 やけに入射角がついている朝夕とは異なり、大分と目にも時間的条件にも最適だ。

 耳を優しく触るような足音を頼りに、伝う振動が一体誰の歩む音なのかを集中して捉えようとする。左右とバラバラに向かいゆく彼ら、彼女らはどんなバックストーリーのもと歩いているのだろうか。

 解らなくとも解りたい。

 見えなくとも見たい。

 知ることがなくとも知りたい。

 ――そう願った。

 真剣にも、私の双眸は外の景色から外したりなどしない。

 スウッと息をつく。

 熱い、けれど目を離すには惜しい。

 もう、あと少しなはずなんだ。

 もう……ちょっと一歩先を見ることができたのなら………………。

 ――ま、眩しいっ。

 外を走る車輪の反射に思わず目を覆う。

 あと、少しだったかもしれないのに……。

 手を払いのけた頃には、景色がまたズラリと様変わりしていて至極ガッカリした。

 やっぱり今の私には無理なのだろうか。

 全く見えてこない。

 聞こえるだけで、理解することはおろか……。

 今やこんな生活を送り始めて四年が経とうとしているのに。

 毎日欠かすことなく、時間を持て余すことなく。

 そして今日も。

 私はこの半地下空間で、上の窓から覗けるメインストリートの人々の動向を観察している。

 窓はガッチリ閉め切っていた。

 喧騒はまるで遠い場所から聞こえてくるよう。

 けれど、耳をなでる足音が……。

 そう、心地よくもどこか重みがある。

 それは彼らの持ち合わせる意志によったものなのだろうか。

「黒装束の人、商談にでも行くのかしら。親子、今から買い物へ? ドレス姿の貴婦人、社交ダンスのレッスンに足を運んでいるの?」

 こじつけでも目を見張る。

 眼球が飛び出すんじゃないかとばかりに、ひたむきな眼差しをおくって。

 次第に意識を心の海にまで沈めていく。

 私の思う、彼らなりの『歩き方』。

 未知の領域だって構わない。

「彼らは何を想い、どうして歩んでいるのか……」

 静止している体とは真反対に、心拍数はさらに加速していく。

 段々呼吸が浅くなり、糸が張るように。

 一直線に神経が音をあげた時だった。



「――ただいまっと!」


 木製の扉をこれでもかと豪快に開放され、澄ましていた耳には予期せぬ大ダメージ。

 軽く耳元を押さえながら、来訪者の正体を目視する。

「いやー、この国はいい具合に暖かくていいね~。北欧までいくと流石に寒すぎて死ぬかと思った」

 二の腕をさする演技をしながらも、あははと太陽よりも燦々とした笑みを向けられる。

 明るい二つ結びの少女。以上の紹介は適さない人だ。

 そんな彼女は堂々とした立ち振る舞いで腰に手を当てた。

 私はジト目で彼女をねめつける。

 せめても扉をゆっくりと、静かに開けてほしかったのだ。

 そんな仕草、誰も求めちゃいない。

 軽く訴えたつもりが、届いていないのか鞄をどっしりと降ろしては気ままに身体を伸ばす彼女。

「んー、次はどこにいこっかな~。私の知らない、もっと遠い場所に行きたい! ふーむ」

 快活な探求に私を置き去りにしたいようだ。

「ねぇねぇ、モフィリアはどこがいいと思う?」

 少しばかりは私の表情を見てコメントでも残したらどうだろうか。

「あのねぇ、そういうのは――」

「あっ、そうだ! 今回もよさげなお土産買ってきたんだ」

 またか。次は一体どんなガラクタを。

「私からのスペシャルプラ~イズ。じゃじゃーん! フィンランドの伝統、ドリームキャッチャー! よくわかんないんだけど、悪夢から守ってくれるんだって~」

「……いらないから」

 眼前に押し付けられる謎土産。

 私は撥ね退けて不要なことをアピールする。

「ほんとにぃ~? このフィンランドの伝統が詰まった装飾品が目に入らぬか!」

 こんな自慢げな彼女に水を差すようで悪いが、数年前に読んだ地理書の記憶を頼りにするなら、ドリームキャッチャーは北欧ではなくて北米の伝統的な装飾品だったような気がする。

 た、たぶん。

 もしかすると、土産屋にフィンランドの伝統云々と詐られ、まんまとカモにされたのでないだろうか。

「あっそー、土産屋の店主があんなにも北欧の伝統を熱く語ってくれてそれはそれは感激のあまり買わざる得なかった代物なのにねー」

 言わんこっちゃない。

 人情深い彼女の性格も、こうも裏目に出てしまうと可哀想に思えてくる。

「はぁ、モフィリアはいらないって言うからこれは今からお土産ではなく私の所有物とさせて頂きます。さて、どこに飾ろっかな~。んー、ここが空いてるね。これを掛けてっと。ひゃー、綺麗だねぇ。買ってきてよかった!」

 独りでにこれでもかと騒がしくする彼女は、それでこそ彼女らしい。

 けれど、私の話には耳を貸してほしい。

「にしても壁が見るに見れなくなっちゃったね。こりゃダメだ」

 四方に囲われたこの150平方フィートしかない半地下空間。

 部屋の壁には、数えるのが億劫なくらいの装飾品が飾られていた。

 居住者には似つかわしくない雑然とした部屋。

 室内を見回すだけで目が回りそうだ。

 そんなガラクタの全ては隣にいる彼女、ウルカが旅先で買ってきた品だ。

 彼女は筋金入りの旅好きなこともあって、外国からの手土産を私に用意するのがいつものオチとなっている。

「これじゃ次買ってくるお土産が飾れないじゃん! ねぇモフィリア~この部屋もっと広げてくんない?」

「無茶いうのはやめて」

「えー、お願いっ! 一生のお願い、いや本当に。増築費用は私が肩代わりするから!」

 床に膝をつき、手を合わせながら涙目でウルウルした瞳を私に見せつけ強く訴えかけてくる彼女。泣き落としが狙いなんだろうが、そう甘くはない。

「ウルカ、あなたはいつもそうやって他人様の家を我が家のように見ているけれど、ここは私個人の、私だけの家なのよ。知ってる?」

「でもでも、私がお金を出してやってるからモフィリアも生活できてるわけじゃん! それこそ知ってる〜?」

 それを言われちゃ私だって強くは出れない。とても耳の痛い話だ。

「金銭的支援をあなたには全面的にしてもらってとても助かっているのだけれど、それとこれとは話が別よ」

「申請書にサインしてくれればいいの! モフィリアがサインくれたら権利上の問題も解決するから私の思うがままに……じゃなくて、私の要望通りにこの半地下もだだっ広くて豪華になるのに」

「……言い直せてないから。それに、百歩譲ってもこの部屋じゃなくて使われていないもう一室に飾り付けてくれないかしら。その部屋だけは誰も使わないから」

「えっ、え~? それはちょっと、なーって感じだし」

「なにか不満?」

「ほ、ほら! あれだよ、あれ。あそこの部屋、窓がなくて日が差し込まないじゃない? なんか邪気が溜まってそうでやな感じ……?」

 どう考えても、取って付けたような言い訳にしか聞こえないのは私だけだろうか。

 思わず嘆息が漏れ出してしまった。こうも温度差がある人間と会話をして疲れてしまうのは必然だが、彼女は彼女で呆れ返らないのだろうか。

「勝手にすれば? どうせあなたのことだから言っても聞かないでしょう」

「やったー! じゃあとことん私のセンスで部屋を改良していくよ~。あっ、もしかしたらこの配置にすればいいかも!」

 早速頭のなかで見取り図が完成したのか、部屋の真ん中で直立している私を横目にルームアレンジを始めたようだ。相も変わらずのお調子者で笑えてくる。

 そんな彼女なのだけれど。

 時折、ここぞとばかりに鋭利なナイフを向けてくる時がある。


「――今日も見てたんだ。外の景色」


「これが私の生きる意味よ」

「ふーん……それで、モフィリアはこれからもこうしているつもり?」

 先ほどとは打って変わって半トーン下がったような彼女の声色。

 早く屈しろ、と言いたげな顔つきだった。

 それでも私の芯を曲げることはない。

「私はただ、あの人のことを解りたいのよ――――」

 あの人は私の何歩先を歩いているのか検討すらつかない。

 なのに友人の前だから気丈に振舞う。

 本当は、あの人に近づくことを『模倣』という形にでしか探していないのに。

 私の持つ、この長い髪。――全ては重荷となって返ってきているのに。

「……そ、それよりさ! また食器を片付けてないじゃん! あれほどこまめに洗えって言ってるのにさー、こんなに溜め込んで。私は優しいから片付けてあげるけど」

 デスクの上に無造作にも積み上げられたものを強く指さした。

 彼女に叱責されるのはさして珍しいことではない。

 トレイに積み上げられたものを両手で抱える彼女。

 なんだかんだ不平不満を漏らしつつもせっせとシンクに運んでいく。

 それみよがしに私もオーダーを、と。

「洗ったら器は右上の棚に。スプーンは下の引き出しに。トレイは適当にかけておいて。頼んだわ」

「はいはい、口だけは達者だこと。やってあげようじゃない」

 彼女はそそくさと懸命ながらも洗い作業に……。

「と、言いたいところなんだけど――」

 彼女は二つの結ばれた髪を引き伸ばしながら帰ってくる。

 彼女は壁沿いに置かれたベッドに腰を沈ませて。ポンポンと手を叩いている。

 隣に座れ、というサインだろう。

「皿洗いはしないのかしら」

「私の大切なお話、聞いてくれたら洗ったげる」

 彼女の持つ二つのレンズは、いつになく丸っこかった。

 捉えて離さぬような。

「あなたが? そんなかしこまって珍しわね」

「あはは、訳あってね。でも、大切なお話だよ。――ほら」

 またも布団を優しく叩く。

「……そう。聞くだけならね」

 こうなれば私も一つくらい聞くしかない。

 何より、そんな顔をされて拒否することは叶わないから。

「ありがとっ! それでね、モフィリアには一緒にして欲しいことがあるって話なんだけど――」

 固唾を飲んでしまう。

 何を、一体何を言われるのだろうか。

 けれど一向に口がうまく回らないのか、唇は蓋をされたままだ。

「話すのならさっさと言いなさい」

 その先が気になって仕方がなかった。

 交互に目線を交錯したのちに、彼女はやっと開口する。


「――私と働いてみない?」


 溜めた時間の割には、釈然としない告白だった。

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