違和感
ハランの夕暮れは、いつも少し騒がしい。
西の空が橙色に染まり始める頃、街は一日の終わりに向けて、むしろ息を吹き返す。
石造りの建物が連なる大通りでは、露店商が最後の客を呼び込み、鍛冶屋の炉からは赤い火が覗く。
焼いた肉の匂い、香辛料、革と鉄の混じった匂い。
それらが混ざり合って、ハランという街の「日常」を形作っていた。
フィン・アルダーは、その中を歩いていた。
革靴が石畳を踏む音は、やけに現実的だ。
一定のリズム。
逃げるでもなく、急ぐでもない。
――生きている。
その事実が、まだ腑に落ちていなかった。
林で倒れたはずの自分。
腹を裂かれ、血を流し、死を待つしかなかった自分。
それが今、こうして夕暮れの街を歩いている。
何度目か分からないほど、腹部に視線を落とす。
服は破れていない。
血の痕跡もない。
皮膚は、最初から何もなかったかのように滑らかだ。
「……夢、か?」
小さく呟いてみる。
だが、夢にしては、街の音が生々しすぎた。
遠くで笑う子供の声。
酒場から聞こえる乱暴な笑い声。
馬車の車輪が石畳を軋ませる音。
ハランは、何も知らない顔でそこにある。
この街は、冒険者の街だ。
交易路の中継点であり、周囲には森や遺跡、魔物の生息地も多い。
だから自然と、冒険者ギルドを中心に街は回っている。
通りを曲がると、その建物が見えてきた。
冒険者ギルド・ハラン支部。
他の建物より一回り大きく、実用性を優先した無骨な造り。
掲げられた紋章は、剣と天秤を組み合わせたものだ。
扉の前には、いつも人がいる。
依頼を終えて戻ってきた者。
これから向かう者。
あるいは、仕事がなくて時間を潰している者。
フィンは、一瞬だけ立ち止まった。
ここに来る理由は、分かっている。
だが、答えが返ってくるとは思っていない。
それでも――確かめずにはいられなかった。
扉を押し開ける。
中は、外以上に騒がしかった。
木の床。
壁一面の掲示板。
依頼書が隙間なく貼られ、いくつかには赤線が引かれている。
受付カウンターの奥では、ギルド嬢たちが忙しなく書類を捌いていた。
冒険者たちの会話が、至る所から聞こえる。
「今回は割に合わなかったな」
「次はもっとマシなの取れよ」
「怪我? ああ、これくらいなら問題ない」
死と隣り合わせの職業とは思えないほど、軽い口調。
それが、ハランの日常だ。
フィンは、その中でひどく浮いている気がした。
受付に立っていたのは、見慣れたギルド嬢だった。
落ち着いた物腰で、冒険者の名前をよく覚えている。
悪い人ではない。
むしろ、親切な部類だ。
「あ、フィンさん。お帰りなさい」
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れる。
「……ただいま」
フィンは、少しだけ間を置いてから切り出した。
「受けた依頼の件なんですが」
「はい。キングスライム討伐、ですね」
即答だった。
やはり、記録上はそうなっている。
声を荒げる気には、なれなかった。
「はい。でも、林で出てきたのはヘルハウンドでした。
かなり大きくて……正直、死ぬところでした」
彼女の表情が、ほんの少しだけ強張る。
「……それは……」
一瞬、言葉に詰まってから、申し訳なさそうに息をついた。
「災難でしたね。本当に」
その一言で、フィンの胸が少しだけ軽くなる。
理解されないわけではなかった。
「ただ……」
彼女は依頼書に視線を戻す。
「魔物の出現は、どうしても完全には管理できなくて。
稀に、生息域が重なることもあります」
「……そう、ですか」
「はい。でも、生きて戻られたのは事実です」
彼女は、柔らかく微笑んだ。
「それは、運が良かった……そう言っていいと思います」
責めるつもりはなかった。
彼女も、嘘をついているわけではない。
「今後は、注意書きを増やすよう上には伝えますね」
責めるでもなく、突き放すでもない。
事務的で、しかし冷たくはない対応。
――だからこそ、余計に言えなかった。
自分は、死んだはずだ。
誰かの声を聞いた。
“0になった”と言われた。
そんな話をしても、信じられるわけがない。
「……ありがとうございます」
それ以上は、何も言わなかった。
依頼は完了扱いとなり、最低限の報酬が支払われる。
手の中の硬貨は、確かな重みを持っていた。
ギルドを出ると、すでに街は夜へ向かっていた。
酒場の灯りが増え、人々の声も大きくなる。
ハランは、今日も問題なく回っている。
誰も、フィンの中に生じた違和感に気づかない。
気づく必要もない。
――世界は、いつも通りだ。
「……0、か」
ぽつりと呟いた言葉は、夜風にさらわれた。
何かが始まった、という実感はない。
ただ、もう以前の自分には戻れない。
そのことだけは、はっきりしていた。
フィン・アルダーは、ハランの街を見上げる。
冒険者の街。
凡人が生き、死に、忘れられていく街。
その中で、自分は――
どこまで「普通」でいられるのだろうか。
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