第五章 「空へと昇る涙」その2

 強い向かい風が、私の行く手を阻んでいた。

 羽織ったマントがバタバタとうなり、前髪が視界をチラつく。

 振り返ると、背後には四頭の巨大な魔獣——ゴリラ、ゾウ、キリン、サイの魔獣が見えた。幸いというべきか、四頭の魔獣は他にはまるで興味を示さずに、私を追ってきている。

 私は愛馬の白い馬に声をかけ、神域の外周を南へと向けて走った。このまま山の辺りまで辿り着けば、すぐにクリスタルへ近づかれることは防げるだろう。

使役しえき……。そんなことができるなんて、くっ……!」

 作戦の失敗——それを招いた『使役獣しえきじゅう』という未知の存在に、私は言い表せないわだかまりを抱いた。

 ……『勇者の力』は決して万能ではない。『勇者の力』の本質は、力を持つ人間が『魔獣』として認識されることにある。魔獣は基本的に他の魔獣には近付かず、自分よりも強力な魔獣からは距離をとる習性がある。この習性の結果で生じるのが『勇者の力』。勇者が魔獣を追い払えるのは、勇者がかなり強力な魔獣として奴らに認識されるからなのだ。

 ——したがって、超上位の魔獣には『勇者の力』が通じない。このような強大な魔獣に出くわした時、私たち勇者パーティーは戦うのだった。

 しかし、それ以外に『勇者の力』を無視する方法が存在した。それが、『使役』。檻に閉じ込められている時点で、超上位の魔獣ではないと判断し、勇者の力が通じない可能性など考慮していなかった。

 正直に言えば、これを予測することは不可能であり、作戦の失敗は仕方がないことだった。しかし、作戦の失敗によって神域の戦士達が数人、命を落とした。今も、想定外の事態に苦戦を強いられ、命の危機にさらされているだろう。

「っ……。切り替えるんだ! こうなってしまった以上、どうにかするしかない! 守護者として、私は神域を守る……‼︎」

 私は腰の剣に目をやり、背後の魔獣を無力化する方法を必死で考えた。

 私には、他の守護者のような戦闘能力はない。あるのはヒノデが認めてくれた、観察能力と洞察力、周囲の状況をいち早く察知する力! 私は私の武器で、この状況を打破してみせる!

 ——パリンッ。

 それは、物理的に考えて聞こえるはずのない音だった。けれど、研ぎ澄まされた私の感覚は、確かにその音を捉えていた。

 私は反射的に、神域の方を見た。蜜柑色のドーム状のベール——その半球の天井部に、わずかな歪みが生じていた。

「あれは……?」

 次の瞬間、信じがたいことが起きた。神域を包む蜜柑色のベール、クリスタルから発生し、神域を神域たらしめているそのベールが、音もなく消滅した。

「っ! まさか……っ⁈」

 ある予感が私の中に生まれ、全身に戦慄が走る。

 すると次の瞬間、神域の中央に大きな火柱が上がり、私の予感を現実のものへと近づけた。

 ——私は急速に方向を変え、神域内部へと進路をとった。

 山岳部が始まるギリギリのところ、木々の生い茂る森の中へ、背後の魔獣達のことなど構わず飛び込んだ。巨大な身体を持つ魔獣達は、森の木々に邪魔をされ後方に消えていく。

「あっちにはクリスタルが……! 神域の核は、亀の攻撃を封じ込めている。その攻撃が見えた、それはつまり……。っ、ありえない! そんなこと、あっていいはずがない‼︎」

 自らを落ち着かせるように呟き、先を急ぐ。

 私は最短ルートで洞窟を駆け抜け、そしてついに、神域の核へと辿り着いた。


「グギャァアオォォッ‼︎」


 凄まじい風圧と共に、竜の魔獣の声が空間に響き渡った。

 竜は翼をはためかせ、眼下にいる亀を見下ろす。一方の亀は、そんな竜に向かい火炎放射を放ち、回避されたそれが天井のない丸い空へと抜けていった。

 ——クリスタルは、破壊されていた。

 上部から突き破られたようなそれは、すでに封印としての強度を失ったのか、亀の攻撃によってみるみるうちに砕けていく。

 暴れ始める亀の神獣。その様子に満足したのか、竜の魔獣は翼をはためかせ、火口のようなその穴から空へと消えていった。

 私はその場に立ち尽くし、心の中で「終わった……」とつぶやいた。

 不思議と、ショックは大きくなかった。なぜかはわからない。ベールが消えていた時点で、この事態を予測できていたからだろうか。それとも、心のどこかではこの事態を予測していたからだろうか。

「っ! 早く行かないと……‼︎」

 私は踵を返し、走り出した。パートナーたる私の白馬は、炎に逃げ出すことなく洞窟のそばで待ってくれていた。私は彼女を撫でると、背後で壁をよじ登ろうともがく亀の神獣を尻目に平原の方へと駆け出した。


 王都軍と神域の戦いの前線は、想像よりもずっと外側にあった。王都の軍勢はいまだ平原にとどまり、神域の内部には侵攻できていなかった。その戦果の裏には、神域の戦士達による命懸けの抵抗があったのだろう。地に染まる大地、倒れた彼らの姿が、そのことを静かに物語っていた。

「っ……、ごめんなさい……」

 きっと、誰にも聞こえなかっただろう。それでも、私はそう口にしていた。

 彼らの中には、クリスタルが破壊されたことに気づいていた者もいただろう。神域のベールが消えるとは、つまりそういうことなのだから。それでも、彼らは戦った。神域を守るために戦った。

 ——私は守護者として、そんな彼らに答えを示さなくてはならない。

 私が平原にたどり着くのとほぼ同時に、四頭の魔獣が後方から戦線に加わろうとしているのが見えた。『使役された魔獣』というのは全くの想定外かつ致命的な存在だったが、今となっては幸いだったと言える。奴らは無秩序に攻撃を繰り返す存在ではなく、あの大臣が命令さえすれば侵攻を停止する、秩序のある存在なのだから。

 私は抵抗を続ける神域の戦士達の間を駆け抜け、切り立った岩の上に馬を進めた。

 ——岩の上に立った時、戦場にいるすべての人間の視線が集まるのを感じた。

 風になびいた白いマント、剣の柄とサヤにくくりつけ旗のようになったそれが、その場にいた人々の注意を惹きつけ、ある者の歩みを止め、またある者の顔を地に伏せさせた。

 私は息を大きく吸い込み、出せる限りの大きな声をこの身体から放った。

「——私達は負けた‼︎ あなた達の求めるものは……、もうここにはない! クリスタルは破壊されてしまった……。神域は崩壊する。……だから、もうっ! これ以上戦わないでっ‼︎」

 たった一人の声。けれどそれは戦場全体に伝わり、そこにいる全ての者の動きを止めた。

 ——私達は負けた。

 その言葉を、私は改めて噛み締めた。

 ——これ以上、彼らが傷ついてはならない。戦ってはならない。

 生き残った彼らを守ること——それが、守護者として私に与えられた、最後の責任だと感じていた。

 神域の戦士達は、口をつぐんでいた。ある者はうつむき、ある者は空を見上げ、またある者は黙って涙を流していた。私もまた耐えがたい痛みを胸に、それでも指揮官として、王都の兵士達の方へ向けて、踏ん張るように立っていた。

 そんな私達の思いが伝わったのか、はたまた敗北宣言が真実のものであると判断したのか、先ほどまで雄叫びを上げていた王都の兵士達も動きを止め、一人、また一人と武器を下ろしていった。

 そんな彼らを見て、私は奥歯を噛み締めながら、戦いの終わりに顔を伏せた。


「——止まるな。あれは嘘だ。クリスタルは、破壊されてなどいない。進め! 侵攻だ‼︎」


 静まり返った戦場に、男の声が響き渡った。

 耳を疑うような発言に、私は声の方に目を向ける。その言葉は、仮面をつけた男——大臣の口から発されたものだった。

「なにを……、言っているの……?」

 私はさっぱり意味がわからず、軽い混乱状態に陥ってしまう。

 大臣と同じサイドにいる王都の兵士達でさえそれは同じのようで、彼らは困惑したようにザワザワと動きに迷っているそぶりを見せていた。

「——何をしている? 進め。攻撃を続けろ! 立ち止まっている者がいれば、後方から迫る魔獣が踏み潰してしまうぞ……?」

 その直後、後方に立つ四頭の魔獣がそれぞれ大きな鳴き声を上げ、前線へ向かって歩み始めた。人の力では抵抗し難い彼らの侵攻に、王都の兵にも動揺が広がる。

「——進め! 敵の言葉に騙されるな! 神域を制圧するのだっ‼︎」

 次の瞬間、一人の兵士が神域の戦士に剣を振るった。私同様、深い混乱に陥っていた神域の彼は、まともな防御をすることなくその刃を受ける。彼の血が宙を舞い、一人の人間がまた大地に横になった。

「いや……、いやぁぁぁ……‼︎」

 私は、声をあげて走り出した。

「やりやがったな……‼︎ テメェこの野郎‼︎」

 彼を切った兵士を、そばにいた神域の戦士が斬り倒す。一連の出来事によって、眠っていた戦場が再び動き始めた。

「神域を制圧しろ! 一人も逃すなっ!」

「上等だっ! オメエら一人も、生きて王都にゃかえさねぇ‼︎」

「死ねぇえ!」

「ぶっ殺すっ‼︎」

 狂気が大気を満たし、金属音が周囲を包む。私はその間を駆け抜け、斬られ地面に横たわる彼の元へ辿り着いた。

「ねえ! 大丈夫⁈ ね——、あ……」

 地面に倒れた彼を抱き起こし、声を掛ける。その瞬間、彼が動くことはもう二度とないのだと分かった。血に染まる両腕、太い動脈のある急所にまで及んだ切り傷。人の身体はこんなにも重いのだと、この時知った。

「あ、あぁ……、ああぁ……‼︎」

「——ミゾレ様! ここは危険です! 離れてください!」

 倒錯する視界の中で、誰かが私をその場から突き飛ばした。

 私は血にまみれたまま、呆然と立ち上がる。

「——ミゾレ様っ⁈ こんなところで何を! 早くこちらへ——クッ!」

 続いて、少し聞き馴染んだ声が聞こえてくる。頭の端の方で、それがハナコの声だと理解した。しかし、そんな彼女も王都の兵に剣を振るわれ、肩の負傷により防戦を強いられる。

「っ……、あの男は何をしてるんだ‼︎ おいネズミ‼︎ ミゾレ様を!」

「俺はネズミじゃねぇ!」

 胸元から飛び出したのは小さなリス。けれど、大きな人間達が激しく動き回る戦場で、カイザーは思うように進むことができない。

 そんなことをしている間に、また一人、目の前で人が倒れていくのが見えた。

「やめて……」

 漏れ出たのは、声になっているかも怪しいほどに、かすかな声。

「もうこの戦いに、意味なんてないのに……」

 私はついに、膝から崩れ落ちた。

 目から涙が溢れ出て、身体から力が抜けていく。張り詰めていた糸が途切れ、ぐしゃぐしゃになった心が、涙となって身体から流れ出した。

 ——なんで、こうなっちゃうの? やだよ。もう誰も、傷ついてほしくない! やだよ、やめてよ。もう、戦わないでよ……。


「——誰か、助けてよ……!」


 その時、大地がうなった。

 地響きのような重低音。わずかな振動を伴ったそれが聞こえた直後、

 ——無数の木の根が、大地から飛び出した。

 うごめくその硬い木の根は、切り結ぶ兵士たちの接触を阻み、戦場を二つに分担するように両軍の間にバリケードを形成した。

「これ、は……」

 一斉になりやむ金属音。我を失いつつ周囲の状況を理解しようとする私の視線の先で——王都軍の後方で、木の根が伸び上がった。それによって宙に放たれ小さな何かが、放物線を描きながらこちらへ近づいてくる。

 そして、一人の少年が私の前に現れた。

 はるか昔から知っているその顔。けれど、決して『彼』ではないと知ったその顔。

 背中から木の枝を伸ばし、毅然とした面持ちでたたずむ少年が、ヒノデと同じ姿をした正体不明のあの少年が、

 ——私の前に舞い降りた。

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