二人の食卓、波待ちご飯
小鹿雪
二人の食卓と、しらすご飯
暁の材木座海岸の空。鎌倉の街を抱きしめるように佇む低い山なみの向こうから、濃紺の宵闇を一閃の朱光が払う。波は静かで、海は冷え切った水鏡となり、少しずつ朱に染められていく。
彼女は、今朝も誰もいない海にサーフボードを滑らせて、その長身の細い身体をそっと載せた。
真冬の寒い朝でも、
水に入ってしまえばそれほど寒さは感じない。しかし、今朝は風も凪いで、うねりも入らず、カオルはボードの上で静かに沖を見つめるだけだった。
「今日はほとんど乗れそうにないかな……」
そう呟きつつも、小さな波を捉えて、岸のほうに向けて軽やかに滑っていく。波と一つになり、音もなく砂浜に上がって、引き上げようとすると――
唐突に、カオルの瞳に、異様な物体が映った。
軽自動車ほどの大きさの、異様に整った丸い金属の塊が、波打ち際のカオルのすぐ横に現れたのだ。たしかに、ほんの一瞬前までは、そこには何もなかったのに、それは突然出現した。
「あれ? なんだろう、これは? さっきまで、暗くて見えなかった……のかな?」
早朝の海辺には、まだ他に誰もいない。
ゆっくりとカオルが近づいてみると、その物体は焼き上がった帆立貝のように、静かにぱかりと開き、中から眩い光が漏れた。
しばし目を眩ませたカオルがゆっくりとその中をのぞき込むと――
「人……? 女の子? ドレスを着た、絵本のお姫様みたいな……?」
薔薇のような真紅のドレスで身を包んだ、金髪で縦ロールの髪型の若い女性が、不思議なほど品のある姿で、静かに横たわっていたのだった。
大抵のことには動じない泰然自若としたカオルだが、さすがの事態に、頭の中は「?」で埋め尽くされた。
それでも、よく見ると、金髪の女性の顔色は青白く、眠っているというよりも、衰弱して気を失っているようにも見える。華やかなドレスも、薄着だ。この冷え込みでは、助けを呼ぶより一刻も早く、暖かい場所に連れて行ったほうがいい。
そう思ったカオルは、金髪の女性を背負って家に連れていくために歩き出した。
ふと、後ろを振り返ると、ついさっきまでそこにあったはずの物体は、跡形もなく消えている。またしても理解の追いつかない出来事だった。でも、今はそれどころではない。ひとまず家に向かうことで精一杯だ。
◇
白い円筒の灯油ストーブに火が灯り、五徳の上の小さな鍋を温めている。その温もりは、窓から差し込む朝日と共に、年季が入った居間を満たしていた。
木製のまな板で食材を刻むリズミカルな音が、令嬢を深いまどろみから目覚めさせる。
「ふ……ふわぁ~……」
大きな口を開けてあくびをしかけた彼女は、慌てて手で口元を隠す。そして、布団の中で横になったまま、素早く周囲の状況をうかがった。
(ここは、どこかしら……わたくしはいったい何をされて……あら、なんということかしら。ベッドではなく、床の上に布団が敷かれているわ……)
慣れ親しんだ光景とは違い、戸惑う彼女だが、次第にあることに気づき、警戒も自然と緩んでいく。その部屋は、あまりにも「美味しそうな香り」に満たされていたのだ。
ぐぅ~、とお腹が鳴る大きな音。すかさず彼女は、布団にくるまり、赤くなった顔を必死に隠そうとする。
「おはよう、目を覚ましたんだね。あ、日本語、わかるかな……?」
ストーブの上の鍋をミトンで掴もうとしていたカオルが、彼女に声をかける。しばし布団にくるまり、そっと顔を出した彼女の碧い瞳には、穏やかな表情で見つめる、細身でショートヘアの凛々しい若者の姿が映った。
「……! 殿下?」
(いえ、そんなはず、ありませんわ……)
彼女の言葉は、自身でも驚いたように、すぐに喉の奥に引っ込んだ。
「あ、ごめん。びっくりさせちゃったね。もうすぐ朝ごはんができるから、まだ横になってていいよ」
またしても彼女にかけられる優しい声。
「……敵意は、なさそうね」
どれだけ「品格を保つことが最優先」と幼い頃から躾けられた彼女でも、美味しそうな香りが、空腹に耐えかねる。
布団からそっと起き上がり、背筋を伸ばすと、配膳される様子を静かに見つめていた。
掘り炬燵の卓上に、二人分の朝ごはんが並べられていく。
茶碗に盛られた白米の上には、カオルが近所の直売所で買ってきた釜揚げシラスと、刻まれた大葉が載せられている。
隣のお椀には、昨晩の残りをストーブで温めた、小松菜の味噌汁。
もう一つの小鉢には、カオルの自家製紫大根のべったら漬けが数切れずつ。
「お待たせ。朝ごはんは、しらすご飯だよ。ちょうど二人分のしらすがあって良かった。あ、でもパンのほうが良かったのかな。え~と……ドゥー・ユー・ライク……パン? じゃなくて……ブレッド?」
「わたくしがいただいても、よろしいのでしょうか……?」
「あ、日本語話せるんだ。うん、もちろん。元気なさそうだったからね、お姉さん……あ、えーと、名前を聞いてもいいかな? 私は、高梨カオル」
令嬢の表情が、少しだけこわばる。それでも、彼女は思い直したように立ち上がって身なりを糺し、ドレスの裾を両手でつまんで持ち上げながら、気品に溢れる笑顔を浮かべて優雅に名乗った。
「わたくしは、マルガレータ・フォン・エーレンシュタイン。この度は、ご相伴に預かる栄誉を賜り、光栄に存じますわ」
「マルガレータ、フォン、えー……あ、マルガレータさん。よろしくね。私は高梨カオル。さっき、海でマルガレータさんが……えーと、あの状況はなんて説明すれば……とにかく、寒いところで倒れてたから、とりあえず家で温まってもらおうと思って連れてきました」
「まあ、わたくし、そのような状況にあったのですね……。カオル様、あなたは、わたくしの命の恩人ですわね」
「いや、そんな大層なことじゃないよ。海ではみんな、助け合いだからね。あ、まあとにかく、しらすご飯が冷めないうちに、食べちゃおうよ」
カオルは「暖かいから」と、マルガレータを掘り炬燵に座るよう促す。ドレスのスカートの脚を慎重に掘り炬燵の布団に潜らせて座ると、マルガレータはこれまでの人生で感じたことがないほどの温もりを、足先で味わっていた。
(これは、なんという魔法がかけられているのでしょうか……。王宮の宝物庫にも、このようなものは見かけませんでしたわ)
「あっ、箸、使えるかな。スプーンのほうが良かった?」
「お気遣いなく。以前、東方の国の使節をお招きした際の饗応のために、箸の使い方を修練いたしましたので」
「そうなんだ、よかった。じゃあ、いっしょに……いただきます」
料理に向けて手を合わせたカオルの仕草を真似て、マルガレータもすっと手を合わせる。そして、ややぎこちなさがありながらも、箸を使い、カオルと同じように味噌汁から口をつけた。
「……!」
口いっぱいに広がる、自家製味噌の甘い香り。丁寧にとられた合わせ出汁の旨味。小松菜の爽やかな苦味。そして、喉元を通り抜ける温もり。
足元を包む掘り炬燵の暖かさと共に、マルガレータは一瞬で、身も心も解されていった。
すぐさま、しらすご飯の茶碗を手に取り、まずは小さく一口頬張る。そして、無意識のうちに一口、また一口と箸が進む勢いが増して行った。
(……これも、なんという美味なのかしら……。白い小魚が載せられた東方の米料理ね。濃厚な味付けではなく、繊細なしょっぱさが優しい味付けですわ)
マルガレータは、さらに夢中で箸を進める。
(添えられているこのハーブも、味をうまく引き立てています。これほどの一品、王宮の朝食でもいただいたことがありませんわ)
「ふふふ」
向き合って食卓を囲むカオルも、マルガレータの品がありつつも止まらない食べっぷりに、思わず微笑む。
「こっちのべったら漬けも美味しいよ」
「ベッタラヅケ……というのですか、こちらは」
勧められた小鉢には、白い麹をまとった紫の大根の漬物が数切れ。マルガレータは恐る恐る箸を延ばし、口に含んだ。
ぽりぽりぽり――
(……! この根菜も、得も言われぬ美味ですわ。甘さと塩味のバランスが、園遊会で演奏される楽団のハーモニーのごとく調和していますもの)
またしても、夢中で食べ進めるマルガレータ。
その様子を観て、カオルも胸の奥が温かくなるのを感じた。
(いつも一人でご飯を食べるのが最近は当たり前だったけど、こうして誰かと一緒に食卓を囲むのもいいな)
二人の朝ごはんの食卓に、言葉は少なかった。
それでも、冷え切った身体と心を温めるには十分だった。
長い冬眠から目覚めた動物のように、マルガレータは一心不乱に食事を終えて、箸を置き、再び静かに手を合わせた。
カオルは、そんなマルガレータを静かに見つめながら、掘り炬燵の中で足を丸める。
「美味しかったみたいだね、よかった。このあと、野菜を買いに行こうと思ってるんだけど、一緒に行く?」
マルガレータは一瞬だけ戸惑い、
(外へ……?)
と、心で呟いた。
遠くから微かに、波音が響いていた。
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