第14話 途川

 

「あぁ……」

 玄関で靴を履き替え、出てすぐのところで電子タバコを吸い始めた橋本ヒロキは、ぼんやり空を眺めていた。空いている片手で、『三戸』と記された玄関扉の横の表札をつつく。名前は炭で描かれているのではなく、彫刻刀か何かで刻まれ、中に墨を流している造りだ。その削った跡を、何となくなぞる。

「きたねー」

 こすっていると埃がついた。手入れしてないらしい。指先が汚れたので、表札になすりつける。すると、ガタンッと、表札が外れた。

「やっべ」

 橋本ヒロキは慌てて三戸の表札を拾う。元あったところに戻そうとして、手を止めた。

「え」

 そこには三戸と記された表札で隠れていたらしい表札があった。そこには、途川と記されている。

「と、とがわ……とかわ? 分かんねー、まぁいいや」

 橋本ヒロキは表札を元に戻す。試行錯誤するうち、きちんとはまった気がした。

「吸った気がしねえや」

 さっきも怖い目にあったし、と橋本ヒロキは大きく息を吐く。

「あ」

 そういえばあの仏壇のある部屋で、なにか拾った。滑った感じからしてレシートを想像したが、手にするとやけに大きかったので、ぐしゃぐしゃにしてポケットに詰めていた。

 煙草の吸殻と一緒に捨てるかとポケットから出せば、それは古び、変色した二枚の和紙だった。


 雨が降らない。

 雨が降らない。

 雨が降らない。

 皆、嘆いている。

 月が見えない。母に知られるわけにはいかない。

 知られたら母は私を責めるだろう。

 血を分けた女中に何をするか分からない。母は苛烈な人。

 この先、どうしたって行くすべがない。

 ならばこの身を捨てよう。


「歌詞? ダッサ」

 橋本ヒロキは、眉間にしわを寄せながらももう一枚、和紙をめくる。


 この身をもって雨を降らすことが出来たなら。何も成せず、何者にもなれぬ私にも、生きた意味があったというもの。

 ならばこの身を捨てましょう。

 私はこの途川の自然を愛し、この土地が豊かになり、子供が笑って生きられることを望みます。

 幸せであれ。

 幸せであれ。

 皆の幸せを祈ります。

 三戸志保


「みと……しほ? この屋敷の人? やば、超大事な奴じゃん」

 橋本ヒロキは慌てて古びた和紙で煙草の吸殻を包み、ぐしゃぐしゃにしてポケットに入れた。これはゴミだ。ゴミにする。この紙はあの仏壇の部屋で拾ったもの、屋敷は三戸家と表札がかけられているので、おそらく三戸家にとって大事なものだ。しかし、またあの仏壇の部屋に行ってこの紙を戻そうにも、そもそもどこにあったか分からないし、畳に落ちていたが、自分が入って落としたのかもしれない。

 今はまだ仏壇の部屋に入ったことがバレてない。

 わざわざ戻したら仏壇の部屋に入ったことがバレる。

 バレたら面倒くさそう。今のところなんともなってないのなら、わざわざことを荒立てるのは自白するようなものだ。捨ててしまえばなかったことになる。

「あ~タバコやんなきゃよかったな」

 吸い殻が邪魔だったので、そのまま包んでしまったが、下手に見つかれば自分の仕業だとバレてしまう。老婆に煙草について言ったばっかりだ。

「くそすぎ……ってかマジで酒飲みたい。この怠さは完全に酒だわ」

 橋本ヒロキは丸めた和紙を強引にポケットに押し込む。老婆の元へ行って酒について尋ねつつ、なにか適当な手伝いをしてその過程でゴミとしてこれを捨てよう。そうすればいい人感が出る。ゴミも捨てられて、酒も手に入るし、最悪、物が亡くなったことがバレても、疑いは外れるだろう。堀井ユリが吸ってることは老婆に共有済みなので、疑うとしたらそっちになる。

 安全策が整ってから、橋本ヒロキは屋敷に戻る。

 カタン、と、『三戸』の表札が落ちた。



 老婆の姿はすぐ見つかった。

 軒が大きくせり出た縁側を歩いていると、庭先で焚火をする老婆の姿があったのだ。玄関に靴を置いておくと煙草を吸うのに手間、靴があれば縁側で吸えた、と反省していたので、橋本ヒロキはあらかじめ靴を持つことにしていた。

 靴を履き庭に出て、すぐに老婆に声をかけた。


「あの」

「はい」


 老婆は振り返る。驚く素振りは無かった。少し不気味に感じつつも、橋本ヒロキは「なにか手伝うことないっすか?」と本題に入る。


「手伝うこと……」

「はい。なんか出来たらなって」

「ああ……」


 老婆はうすぼんやりした返事をする。


「お友達は、もう離れて良いのですか?」

「ああ、実は、台本が駄目みたいで、時間空いてるんですよね。準備が出来るまで、本当にすることないっていうか。暇? 酒飲んで待ってようかなって思ったんですけど、コンビニとかもないし」


 こんな感じでいいだろう。あまり本意を伝えても、警戒される。橋本ヒロキはさりげなく老婆の様子をうかがう。


「さようでございますか。ならば、お願いしましょうかね」


 老婆はさっと焚火の始末をした。何かの布や、筆箱らしきもの、水筒まで燃やしている。こんなことをしたら変なガスが出そうという心配と、さっきの紙をこれに紛れ込ませて燃やせばいいのではというひらめきがせめぎ合う。


「あ~何でもいいっすよ。バンドでめっちゃ機材運ぶんで。そういうほうが向いてるまであるんで、あはは」

「では、こちらへ」


 老婆はゆったりと進んでいく。辺見ハヤトたちが待機している場所とは反対の方角だ。屋敷を囲う塀の中は、彼岸花こそ咲いているが、整えられているとは言い難い。風で飛んできた落ち葉や枯れ枝がそのままにされ、人間が住んでいるとは到底思えなかった。


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