ブラック企業のサラリーマン、現代ダンジョンに挑む

塩塚 和人

第1話 残業地獄とダンジョン出現

終電一本前。

それが今日の遠藤紘一に許された、唯一の「ご褒美」だった。


「――はぁ……」


ため息をつくたび、肺の奥に溜まった疲労が音を立てる気がする。

午後九時を回ったあたりから、脳はとっくに仕事を拒否していた。それでも指だけは、勝手にキーボードを叩き続けている。


営業資料の修正。

三回目だ。


「ここ、やっぱ数字弱いよねぇ。今日中に直しといて」


そう言った上司は、もうとっくに帰っている。

修正点は曖昧、代案はなし。責任だけが、こちらに丸投げだ。


――これ、ダンジョンちゃうんか。


遠藤は大阪出身だ。

頭の中で浮かぶツッコミは、常に関西弁だった。


モンスターはいない。

剣も魔法もない。

その代わりにいるのは、理不尽と、無限湧きするタスクと、HPをじわじわ削る精神攻撃。


「……アホらし」


小さく呟き、保存ボタンを押す。

時計を見ると、二十三時二十分。


よし。今日は、逃げ切れる。


上司にメールを送り、PCをシャットダウンする。

立ち上がった瞬間、足が痺れてふらついた。


「はは……これで給料、平均以下やもんなぁ」


笑いにもならない。


エレベーターを降り、ビルの外に出ると、夜風がやけに冷たかった。

東京の夜は、いつまで経っても他人行儀だ。


――大阪帰りたいな。


そんなことを考えながら、スマホを取り出す。

癖のようにニュースアプリを開いた、その瞬間。


【速報】

【大阪・梅田地下にて大規模異常空間を確認】


画面に踊る赤文字。


「……は?」


足が止まる。

周囲を歩く人間たちも、一斉にスマホを見て立ち止まっていた。


続報が流れる。


【地下街の一部が消失】

【内部に未知の構造物】

【専門家「ダンジョンの可能性」】


「ダンジョン……?」


誰かが、半笑いで呟いた。


ゲームの中の言葉だ。

現実で口にするには、あまりにも浮いている。


だが、映像を見た瞬間、背中に寒気が走った。


地下街の入口。

コンクリートの壁の向こうに、あり得ないほど深い闇が口を開けている。


照明が届かない。

奥が、見えない。


「……マジ、かよ」


遠藤は、なぜか確信していた。


これは冗談じゃない。

フェイクニュースでも、話題作りでもない。


世界が――少し、ズレた。


その瞬間だった。


ピロン、と軽い音。


【探索者登録制度について】

【あなたは対象条件を満たしています】


「……は?」


指が、勝手に通知を開く。


【本制度は、異常空間(通称:ダンジョン)への立ち入りを希望する民間人を対象としています】

【初回適性検査は無料です】


無料。

その単語に、社畜の脳が反応する。


――いや、ちゃうやろ。


笑い飛ばそうとした。

けれど、画面の下に表示された一文が、遠藤の動きを止めた。


【報酬:探索成果に応じた現金支給】


「……現金」


喉が鳴る。


月末の口座残高。

上がらない給料。

増える残業。

削られる、人生。


脳裏に、今日の上司の顔が浮かぶ。


「若いうちはさ、多少無理しないと」


無理の定義、そっち基準やんけ。


遠藤は、夜空を見上げた。

高層ビルの隙間に、星は見えない。


――このまま会社のダンジョンで死ぬか。

――ほんまもんのダンジョンに行くか。


どっちも地獄や。

せやけど。


「……どうせなら、選ばせてくれや」


指が、登録ボタンに触れた。


【探索者仮登録が完了しました】


画面が切り替わる。


【適性検査日:後日通知】

【命の安全は保証されません】


「それ、会社も一緒やん」


思わず、笑った。


その夜。

遠藤紘一はまだ知らない。


自分がブラック企業で積み上げてきたものが、

この世界で――最悪で、最強の才能として評価されることを。


そして。


会社よりも理不尽な場所が、

会社よりも「正直」だということを。

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