第10話 恭介の想い
薄暗い寝室で、明日香の柔らかな体温を腕の中に感じながら、恭介は天井を見つめていた。 風呂上がりの彼女からは、石鹸の香りと、抗いようのない女の匂いが立ち上っている。男としての本能は、今すぐにでも彼女を押し倒し、そのすべてを貪り尽くせと叫んでいた。
けれど、恭介はただ、その衝動を喉の奥へ飲み込む。 彼が指一本触れず、ただ彼女を抱きしめて眠るのには、血を吐くような後悔と誓いがあった。
かつての恭介は、今とは正反対の「獣」だった。 一度火がつくと、相手が逃げ出すほどの性欲をぶつけずにはいられない。愛していればいるほど、触れたい、貫きたい、独占したいという欲望が制御不能になった。どんな場所でも唇を奪い、人目も憚らずその身体をまさぐる。それが彼なりの愛の表現だった。
だが、その「愛」が、最も大切にすべきはずだった女性を壊したのだ。 婚約目前だった元恋人。彼女が泣きながら叫んだ言葉は、今も恭介の鼓動を鋭く突き刺す。
「私のこと、ただの性欲処理の道具としか思ってないんでしょ!」
「違う、俺は君を……」
「触らないで! ほら、そうやってすぐに自分の欲望を押し付けてくる! 私の話を一度でも聞いたことがあった? 女の子はね、正解やアドバイスなんて求めてないの。ただ、うん、うんと聞いてくれるだけで癒されるものなの!」
恭介は完璧であろうとした。彼女の悩みに答えを出し、最短ルートで解決策を提示し、肉体で愛を証明する。それが男の包容力だと信じて疑わなかった。
「あんたみたいに完璧で、正論しか言えない人間に、私の泥臭い気持ちなんて分かるはずがない! アドバイス? 解決策? 違うのよ、私が欲しかったのはそんな『正解』じゃない。ただ、私の隣に座って、一緒に悩んで、一緒に絶望してくれる人だったの。
あんたが優しく正論を振りかざすたび、私がどれだけ自分が無能で、価値のない人間に思えて、惨めだったか分かる!? 体だけ繋がって、心はいつも独りぼっち……。あんたと抱き合っているときが、世界で一番孤独だった!
愛してるなんて言わないで。あんたが愛しているのは、私じゃない。
『完璧に彼女をエスコートして、完璧に満足させている自分』に酔いしれているだけでしょ!? もう、その綺麗な顔も見たくない。触らないで……。 あんたに触れられると、自分がただの『都合のいい抜け殻』になったみたいで、吐き気がするの。 二度と、私の人生に関わらないで!」
その日、恭介はすべてを失った。 愛という名の身勝手な欲望で、最愛の人を灰にしてしまった。
傷心を癒すように夜の街を飲み歩き、絶望の淵にいた数ヶ月前。 たまたま場末のバーで隣り合わせたのが、明日香だった。 寂しげにグラスを傾ける彼女の横顔に、かつての自分と同じ、行き場のない孤独の影を見た。放っておけず、柄にもなく声をかけた。
酔った明日香が、ポツリポツリとこぼした理想。 「……高校生みたいな、ただ手を繋いで、抱きしめ合うだけの……体じゃなくて心で繋がる恋愛がしたいな」
「一軍の女子たちがしてたみたいな、放課後デート。私、ずっと憧れてたの」
その瞬間、恭介の中で何かが弾けた。
(ああ、そうか。俺がすべきだったのは、教えることでも、抱くことでもなかったんだ)
彼女の失われた青春を、今から俺が全部埋めてあげよう。 嫌われるほど強すぎたこの性欲は、彼女の笑顔を守るための「盾」として封印しよう。 彼女が望む「心で繋がる聖域」を、俺がこの手で作り上げるんだ。
「……明日香」
恭介は腕の中の重みに、そっと頬を寄せた。 下半身で欲しがるのは簡単だ。けれど、この人を本当の意味で愛したいなら、今はただ、この静かな寝息を聞いているだけでいい。 理性が本能に勝つたびに、恭介は明日香を幸せにする資格を、一歩ずつ取り戻しているような気がしていた。
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