第10話 冒険は、終わらない
第10話 冒険は、終わらない
王都を覆っていた禍々しい暗雲は消え去り、今朝の空は抜けるように青い。 崩壊した王城の修復作業が進む中、街は「魔神を討った英雄」の噂でもちきりだった。
「公爵家令嬢シルヴィア・フォン・アステリアに、護国の聖女の称号と、新たな領地を――」
王の間で執り行われた、国王による直々の叙勲式。 だが、その中心にいるべき少女は、豪華な正装を纏うこともなく、漆黒の道着に旅装の外套を羽織っただけの姿で、静かに首を振った。
「お言葉ですが陛下。私(わたくし)には、その称号も領地も重すぎますわ。……私のような『力』を持つ者は、どこにも属さず、己を律し続けるのが、理(ことわり)というものですもの」
「爵位を捨てるというのか、シルヴィア……!」
「捨てるとは心外ですわ。私は、より広い道場(せかい)へと足を踏み出すだけです」
彼女は深々と、けれど対等な一礼を捧げ、呆然とする重臣たちの間を堂々と通り抜けた。 豪華な絨毯を踏む足音。それが石畳の硬い音に変わる。 彼女にとっての心地よい響き。
城門を抜け、王都の郊外へと続く街道に差し掛かった時。
「待ってくれ! シルヴィア!」
聞き慣れた、けれど今はひどく情けなく震える声が背後から響いた。 カイルだ。魔神の力を失い、王位継承権を剥奪されて謹慎中の身であるはずの元婚約者が、息を切らして追いかけてきたのだ。
「……何の用かしら、殿下。いえ、今はカイル様、でしたわね」
シルヴィアは足を止め、肩越しに冷ややかな視線を送った。 カイルの顔は、かつての傲慢さが嘘のように青ざめ、必死の形相をしていた。
「あ、謝りたかったんだ! 私は間違っていた。君の真の価値を見抜けず、あんな……! だから、頼む。もう一度、やり直してくれないか! 私を支えてくれ、君のその力で!」
その言葉を聞いた瞬間、シルヴィアは小さくため息をついた。 (……全く。これほど打ち据えられてなお、自分以外の何かに縋(すが)ろうとするなんて)
「カイル様。一つ、お教えしますわ」
シルヴィアは向き直り、ゆっくりと歩み寄った。 カイルは期待に目を輝かせ、彼女の手を握ろうと身を乗り出す。
「……本当のやり直しというものは、誰かの手を借りるのではなく、自分の足で立ち上がった時から始まるのです」
「え……?」
カイルが触れようとしたその瞬間。 シルヴィアの腕が、吸い付くような円を描いた。
――龍華拳、腕返(うでがえし)。
「あ、がっ!?」
カイルの視界が、一瞬で回転した。 力任せの暴力ではない。カイルが自分から踏み出した勢いを、そのまま地面へと逃がしただけ。 「ふわり」と体が宙を舞い、次の瞬間、彼は街道の草むらの上に転がっていた。 背中に当たる柔らかな芝生の感触と、自分の重心を見失ったことによる呆然とした感覚。
「暴力ではありませんわよ? ――最後の、個人授業ですわ」
シルヴィアは、ひっくり返ったカイルを見下ろし、爽やかな微笑みを向けた。 その瞳には、恨みも怒りも残っていない。ただ、遠くを見据える武人の静かな慈愛だけがあった。
「地に背中を預ければ、空が広く見えるでしょう? そこでしばらく、自分自身の愚かさと、それ以上に尊い『自分の足』の重さを考えてみてくださいな。……それでは、ごきげんよう」
「あ、ああ……シルヴィア……」
カイルはもはや追いかけることもできず、ただ広大な青空を仰いでいた。 シルヴィアは軽やかな足取りで、再び歩き出す。
街道の先には、ギルドで知り合ったレオンや、彼女を慕う冒険者たちが門出を祝おうと集まっているのが見えた。 「シルヴィア殿! 本当に行っちまうのか!」 「ええ。世界は広いですもの。まだ見ぬ技、まだ見ぬ理が、私を呼んでいますわ」
彼女は彼らに向かって一度だけ手を振ると、一度も後ろを振り返ることなく、光の中へと足を踏み出した。
風が、道着の裾を揺らす。 森のざわめき、鳥の声、遠くの街の喧騒。 すべての五感が、彼女に語りかけてくる。 前世で追い求めた「拳禅一如」の境地は、この新しい世界での旅路の先に、まだ続いているのだ。
「……さあ、参りましょうか」
腰に下げたギルドプレートが、陽光を反射してキラリと輝く。 かつて悪役令嬢と呼ばれた少女は、今、一人の誇り高き師範として、自由の風を切り裂いていく。
物理の理。心の理。 彼女の拳が、次に誰を救い、何を正すのか。 物語はここで幕を閉じるが、彼女の演武は――終わらない。
雲一つない空の下、シルヴィア・フォン・アステリアの力強い足音が、未来へと向かって刻まれていった。
第10話 完
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました! 少林寺拳法の「理」と、悪役令嬢の「品格」が融合した、爽快なアクションストーリーとなりました。
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