第8話 皇太子の過ち
第8話 皇太子の過ち
王都の空が、毒々しい紫色の雷鳴に引き裂かれた。 祝祭の余韻は一瞬で悲鳴へと書き換えられ、大気を震わせる不気味な咆哮が、人々の鼓膜を容赦なく叩きつける。
「あははは! 見ろ、これこそが真の力だ! 私を見下した者共を、すべて平伏させてくれる!」
王城のバルコニーから狂った叫びを上げているのは、カイル皇太子だ。その手には、禁忌の聖域から奪い去った『魔神の心臓』が、脈打つ黒い泥を垂らしながら握られている。 封印を解かれた古の魔神の欠片が、王都に潜む影を魔物へと変え、平和な街並みを地獄へと変えていく。
ギルドの酒場に、緊急招集の鐘が鳴り響いた。
「シルヴィア! 王城付近に魔物の群れが出現した。避難が間に合っていない!」 「……全く、あの方はどこまで愚かなのでしょう」
シルヴィアは、飲み干したばかりの茶器を静かに置いた。 その仕草は貴婦人のように優雅だが、立ち上がった瞬間に放たれた気迫は、周囲の冒険者たちを一歩後ずさりさせるほどに鋭い。
「ギルドマスター、指示は不要ですわ。私(わたくし)の行くべき道は、理(ことわり)が示しておりますもの」
彼女がギルドの扉を蹴り開けると、外はすでに阿鼻叫喚の図だった。 泥のようにどろどろとした不定形の魔物――シャドウ・クロウラーが、逃げ惑う人々を囲い込み、その鋭い触手を振り上げている。
「助けて……! 誰か!」
転んだ幼い少女に、魔物の触手が振り下ろされた瞬間。 シルヴィアの黒い影が、爆ぜた。
「そこまでですわ、不浄なる者」
ビシッ! と、濡れた石畳を強く踏みしめる音が響く。 シルヴィアは少女を抱き上げると、滑らかな円を描く歩法で攻撃をかわした。
――千鳥足(ちどりあし)。
それは酔客の千鳥足のように不規則で、されど計算し尽くされた重心移動。 魔物が放つ無数の触手は、まるでシルヴィアの体に磁石の同極同士が反発するように、空を切り続ける。
「お逃げなさい。ここは私という『壁』が守りますわ」
少女を避難させると、シルヴィアは一転して攻勢に出た。 魔物の足元――泥のように広がる根幹の部分へ、鋭く一歩を踏み込む。
「はぁッ!」
――足払(あしばらい)。
単なる足払ではない。全身の回転エネルギーを足先に集中させ、相手の重心を根こそぎ刈り取る一撃。 バキォォッ! と地面を削るような音がし、質量を持たないはずの影の魔物が、物理的な「理」に抗えず無様にひっくり返った。
「キ、ギィィッ!?」
「驚くことはありませんわ。この世に存在する以上、中心を失えば崩れる。それが自然の摂理ですの」
シルヴィアの周囲には、次々と魔物が集まってくる。 一対多数。本来ならば絶望的な状況。 だが、彼女は微笑んでいた。その瞳には、前世で幾度も繰り返した「乱捕(らんどり)」の愉悦が宿る。
「カイル殿下、ご覧になっていますか? 恐怖で人を支配しようなど、最も脆弱な者がすること。 ――本当の力とは、崩れぬ『自分』を持つことなのですわ!」
シュッ、シュッ! と空気を切り裂く音が連発する。 彼女は「千鳥足」で敵の攻撃を誘い込み、互いの触手が絡み合うように誘導する。 混乱する魔物たちの隙間を縫い、シルヴィアの脚が死神の鎌のように翻った。
――払受蹴(はらいうけげり)。
敵の払いをそのまま蹴りへと繋げ、三匹の魔物を一度に地面へと叩き伏せる。 メキメキッ、と地面の石が鳴る。 彼女の立ち回りは、もはや闘争ではなく、魂を浄化する演武だった。
「ひるむな! 彼女に続け!」 「シルヴィア殿が道を作ってくれたぞ!」
彼女の戦いぶりに鼓舞され、恐怖に凍りついていた冒険者や自警団たちが武器を手に立ち上がった。 一人、また一人と人々の心に「勇気」という灯火が宿る。
「ふふ、皆様。いい顔になってきましたわね」
シルヴィアは、迫りくる巨大な影の塊を真っ向から見据えた。 王城の頂で、皇太子がさらに魔力を暴走させている。 空一面を覆うほどに膨れ上がった闇が、王都を呑み込もうとしていた。
「これ以上の不作法は、師範として見過ごせませんわ。 ……殿下。お尻を叩くだけでは、済まさないとお覚悟なさい」
彼女は額の汗を指先で拭うと、闇の根源である王城へと視線を向けた。 その足取りは、誰よりも力強く、大地に勇気ある音を刻みつけていた。
第8話 完
「千鳥足」の幻惑的な動きと、多人数を制する「足払」の爽快感を描きました。
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