第2話 ドレスを脱いだ師範
第2話 ドレスを脱いだ師範
夜の王都は、石畳を濡らす霧に包まれていた。 公爵令嬢としてのきらびやかな虚飾を脱ぎ捨て、黒いタイツに身を包んだシルヴィア・フォン・アステリアは、一人、闇を歩く。 馬車の揺れも、香水の香りもない。あるのは自分の肺が吸い込む冷たい空気の感触と、一歩ごとに地面から返ってくる確かな「自重」の感覚だけだ。
(……足取りが、これほど軽いとは。前世の稽古帰りも、こんな心持ちでしたわね)
向かったのは、王都の北端。荒くれ者が集う冒険者ギルド「剛拳の鬣(たてがみ)亭」だ。 重厚な木の扉を押し開けた瞬間、押し寄せたのは安酒の饐えた匂いと、獣じみた男たちの体臭。そして、剥き出しの闘争本能が混ざり合った、濃密な空気だった。
「おいおい、見ろよ。迷子の小鳥ちゃんが迷い込んできたぜ」
野太い声が、ギルド内に響く。 談話スペースに陣取っていた冒険者たちが、獲物を囲む野犬のような目で一斉にこちらを向いた。 シルヴィアは彼らの視線を、まるで柳の枝が風を受け流すようにさらりと無視し、一直線に受付カウンターへと向かう。
「冒険者登録をお願いしたいのですけれど。どなたに声をかければよろしくて?」
凛とした声。 受付の女性が、驚きで目を丸くした。 「えっ、あ、はい……ですがお嬢様、失礼ですがここは貴族の方の遊び場では……」
「遊びに見えますか?」
シルヴィアはカウンターに指を置いた。その指先には、ペンを握る令嬢の軟弱さはない。常に「構え」を意識した、静かな力が宿っている。
「へっ、気に入らねえな。その透き通ったツラがよぉ!」
ドォン! と床を鳴らして巨漢が立ち上がった。 身長は二メートル近い。丸太のような腕には、これ見よがしに巨大な戦斧が下げられている。新人潰しとして悪名高い「鉄塊のゴリ」だ。
「ここは魔力があるか、力が自慢の野郎が集まる場所なんだ。お前みたいなガリガリの女が来る場所じゃねえんだよ!」
ゴリが、丸太のような太い腕を振り上げ、シルヴィアの肩を掴もうと無造作に伸ばした。 その瞬間、シルヴィアの脳内で「理」が静かに弾けた。
(間合い、三歩。右手の親指が外を向いている……。力任せの、捕縛狙い)
シルヴィアは瞬き一つせず、すっと半身に構えた。
「……触れないでいただけます? 私(わたくし)、無礼な方は嫌いですの」
「あぁん!? ぶっ壊してやる!」
激昂したゴリの拳が、空気を引き裂いて迫る。 周囲の冒険者たちが「あちゃあ」と目を逸らした。あの巨拳なら、華奢な少女の顔面など一撃で粉砕される。
だが。 シルヴィアの意識は、凪いだ水面のように静まり返っていた。
「――ぬるいですわね」
彼女の左手が、電光のごとき速さで跳ね上がった。
――上受(うわうけ)。
ただ受けるのではない。 相手の拳の軌道を、掌の付け根で上方向へとわずかに弾き、その威力を天へと逃がす。 ゴリの拳は、シルヴィアの髪を一房揺らしただけで、空を斬った。
「なっ……!?」
自分の力が空転し、前のめりになる巨躯。 シルヴィアは、その隙を見逃さない。 彼女の足が、複雑な弧を描いて踏み込まれた。
――千鳥返(ちどりがえし)。
受けた左手で即座に相手の腕を絡め取り、その勢いを利用して引き込む。 同時に、右の拳を、相手の顎の先端――脳を揺らす一点へと叩き込んだ。
ゴッ、という重い振動が、彼女の拳を通じて全身に伝わってくる。 拳の感触。骨の硬さ。そして、相手の意識が断絶する瞬間の、あの独特な「手応えの消失」。
「……っ……ぁ……」
ゴリの白濁した目が上を向く。 シルヴィアは即座に手を離した。 支えを失った一トン近い肉の塊が、まるで糸の切れた人形のように、酒場の床に派手な音を立てて沈んだ。
静寂。 ジョッキの中の泡が弾ける音すら聞こえそうなほど、ギルド内が静まり返る。
シルヴィアは、自身の右拳についたわずかな汚れを払うように、静かに息を吹きかけた。 そして、顔色一つ変えずにカウンターへ向き直る。
「さて。お話を続けてもよろしくて?」
受付嬢は、口を半開きにしたまま固まっていたが、数秒後、弾かれたように書類を取り出した。 「は、はいっ! ただいま! すぐに手続きをいたしますっ!」
「ありがとうございます。……ああ、それと」
シルヴィアは、床でいびきをかき始めたゴリを見下ろし、周囲の冒険者たちに静かな視線を走らせた。 その瞳には、先ほどまでの攻撃的な鋭さはない。 かつて千人の門下生を導いた、師範としての峻烈ながらも落ち着いた威圧。
「……次は、きちんと話が通じる方だと助かりますわ。力だけで語り合うのは、野蛮な獣のすることですから」
その一言に、数人の冒険者が震え上がり、慌てて目を逸らした。 彼女の動きには、魔法の輝きも、スキル発動のエフェクトもなかった。 だからこそ、彼らには理解できなかった。 なぜ、ただの「突き」と「受け」だけで、自分たちの数倍の体格を持つ男が沈んだのか。
「……お嬢さん。いや、あんた。名前は?」
隅の席で酒を飲んでいた、片目の老冒険者が声をかけてきた。 シルヴィアは、受付嬢から渡されたばかりの、まだ真新しいギルドプレートを指先で弄んだ。
「シルヴィア。……ただの、シルヴィアですわ」
「シルヴィア、か。……いい目をしてる。この場所じゃ、魔法よりよっぽど頼りになる武器だ」
「お褒めに預かり光栄ですわ。ですが、私の武器は、ここ(拳)にありますので」
彼女はプレートを懐に収めると、出口に向かって歩き出した。 背後から、ようやく再開された喧騒が聞こえてくる。だが、今度の喧騒には、彼女への恐怖と、隠しきれない敬意が混じっていた。
ギルドの重い扉を閉め、夜の通りに出る。 シルヴィアは、自分の掌を見つめた。 前世で何度も繰り返した、基本の突き。 その「理」が、この異世界でも通用することを、彼女の身体は確信していた。
「魔法、魔力、才能……。そんな不確かなものより、積み上げた『技』こそが、私を裏切らない」
彼女は月を見上げ、小さく笑った。 令嬢としての仮面を脱ぎ捨て、師範としての魂を解き放った夜。 シルヴィアの冒険は、まだ始まったばかりだ。
「さて。まずは、今夜の宿を探さなくてはなりませんわね。……ふふ、お腹が空きましたわ。この世界に『うどん』があればよろしいのだけれど」
かつて門下生たちと稽古の後に食べた、あの安いうどんの味を思い出しながら、彼女は軽やかな足取りで、闇の向こうへと消えていった。
第2話 完
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