第29話 行ってらっしゃいと、必ず帰る場所

夏休み初日の前日。

期末試験も終わり、キャンパスは一気に緩んだ空気に包まれていた。

​学生たちは、それぞれ帰省や旅行の話で盛り上がり、サークル棟もどこかお祭り前夜のような雰囲気になっている。


「明日、朝早いんだよね?」


夕方、いつものサークル棟の部屋で、ペットボトルのお茶を飲みながら深雪さんが尋ねた。


「はい。朝の新幹線なんで、七時前には家出ようかなって」


「なるほど」


彼女は「ふむ」と小さく頷く。


「じゃあ、その前に」


「その前に?」


「“行ってらっしゃい会”しよ」


さらっと言われた言葉に、一瞬だけ固まる。


「行ってらっしゃい会、ですか」


「うん。帰省前の最後の夜くらい、ちゃんと顔見て“行ってらっしゃい”言いたい」


その言い方が、妙に甘かった。


「……ぜひ、お願いします」


素直に頭を下げると、彼女は満足そうに笑った。


その夜。

いつもより少し早い時間に、アパートのチャイムが鳴いた。


「こんばんは」


扉を開けると、いつものカーディガン姿の深雪さんが、

小さな紙袋を下げて立っていた。


「お邪魔します。今日は、“行ってらっしゃい仕様”でお送りします」


「仕様って何ですか」


笑いながら部屋に上がってもらう。

机の上には、簡単な夕食が用意されていた。

コンビニのパスタとサラダ――の、予定だったのだが。


「……わざわざ作ってきたんですか」


テーブルに並べられたのは、お弁当箱に詰められたおかずたちだった。


「さすがにキッチン借りて一から作るのは時間が足りなかったから、

 家で作って詰めてきた」


「これは」


「からあげ、卵焼き、きんぴら。遠足のお弁当みたいなラインナップ」


そう言って笑う彼女に、胸の奥がじんわり温かくなる。


「……ありがとうございます」


「“行ってらっしゃい弁当”ってことで」


彼女は、自分でそう命名して、箸を手渡してくれた。

一緒にテーブルを囲み、お弁当箱のふたを開ける。

からあげは、衣が薄くて、甘辛いタレが絡んでいる。

卵焼きは、いつもの味より少しだけ甘め。


「おいしいです」


最初のひと口で、そう言葉が漏れた。


「よし」


彼女は少しだけ肩の力を抜いて笑う。


「“帰省前の最後のごはん”だから、ちょっとだけ気合入れた」


「実家のご飯より、好きかもしれません」


本音が出る。


「それ、帰ってから言ったら怒られるやつ」


「心の中だけに留めておきます」


「そうして」


笑い合いながら箸を進める時間は、

いつもの“ごはん会”と同じで、でも少しだけ違っていた。


お互い、「明日から数日会えない」ということを、

ちゃんと意識している分だけ。


食後、テーブルを片付けてから、

ささやかな“荷物チェック”が始まった。


「洗面用具、充電器、財布、学生証……」


ベッドの上に広げたトートバッグの中身を、

ふたりで確認していく。


「これ、持っていく?」


深雪さんが、机の上の一冊の本を指差した。

この前、二人で本屋で選んだエッセイだ。


「ああ、それは……持っていきたいです」


「じゃあ、カバンの隙間に入れときな」


本をバッグに入れながら、ふと気づく。


この本は、「大学で一緒に過ごした時間」の象徴みたいなものだ。


(地元で読むのも、悪くないかもしれない)


そんなことを思う。

ひととおり準備が終わったあと、

部屋の灯りを少し落として、ソファに並んで座った。


「改めて、明日から数日、お別れです」


深雪さんが、少しだけ芝居がかった口調で言う。


「そんな大げさな」


「だって、毎日の“おかえりごはん”が数日空くんだよ?」


「“毎日”ではないですよね」


「体感的には毎日なの」


そう言って笑う彼女に、

こちらも笑い返す。


「ちょっと確認なんだけど」


「はい」


「地元にいる間のルール、覚えてる?」


「“おはよう”と“おやすみ”は必ず送る」


「正解」


人差し指を立てて、にこりと笑う。


「あと、“しんどくなったら黙らずに一回何か送る”」


「“助けて”でも、“しんどい”でも、“なんかモヤモヤする”でも、何でもいいからね」


「はい」


「現地まで飛んでくのは難しいけど、スマホ越しにくらいなら、

 いつでも隣にいるから」


その言い方が、あまりにも頼もしくて、優しかった。


「……ねぇ、悠人くん」


静かになった部屋の中で、彼女が少しだけ真面目な声色になる。


「ひとつだけ、お願いしてもいい?」


「何ですか」


「地元で、“あのときの自分に会う”ことがあったら」


「あのときの自分」


「うん。“ここで振られたな”とか、“ここで一人で歩いてたな”とか、

 そういう場所、たぶんあるでしょ」


喉の奥が少し重くなる。


確かに、歩けば必ず思い出す場所がある。


「もしそういう場所に行くことがあったら」


彼女は、俺の横顔を覗き込むように続けた。


「今の自分で、その子に“行ってきます”って言ってあげてほしい」


「……“行ってきます”」


「うん。“ここにずっといなくていいよ”って。

 “ここから先は、今の俺が歩くから”って」


目の奥が少し熱くなる。


「……はい」


それは、過去に置き去りにしてきた自分に向けての、

小さな別れの言葉なのかもしれない。


「ちゃんと“行ってきます”って言えたらさ」


彼女は、そっと微笑んだ。


「こっちに帰ってきたとき、前よりもっと軽い顔で“ただいま”って言えると思う」


「そうなれるように、がんばります」


自然とそう言葉にしていた。

ふと、彼女が手を伸ばしてきた。


「手、出して」


言われるままに、掌を上に向ける。

深雪さんの手が、その上に重なった。


「“行ってらっしゃいハンコ”」


「……なんですか、それ」


「今、私の手の感触、ちゃんと覚えといて」


重なった手のひらから、体温がじんわりと伝わってくる。


「地元でちょっとしんどくなったとき、ここ見て思い出して。

 “帰る場所あるな”って」


言われて、心の奥底に何かが静かに染み込んでいく。


「……ちゃんと覚えます」


指先の温度まで。

時計を見ると、そろそろ終電が近づいていた。


「そろそろ行かないとね」


深雪さんが立ち上がる。


玄関まで見送ると、靴を履き終えた彼女が、ドアノブに手をかける前に振り返った。


「じゃあ、改めて」


少し息を吸い込んでから、真っ直ぐな目で言う。


「行ってらっしゃい、悠人くん」


胸の奥が、強く鳴った。


「……行ってきます、深雪さん」


言葉を返しながら、さっきの“行ってきます”が、

過去の自分に向けたものにも重なっていくのを感じる。


「気をつけてね」


「はい」


「それと」


彼女は、少しだけいたずらっぽく笑った。


「ちゃんと帰ってきてね」


「絶対に帰ってきます」


即答だった。

迷いも、躊躇いもなく。


「よろしい」


深雪さんは満足そうに頷いて、ドアを開ける。


「じゃあ、おやすみ」


「おやすみなさい」


扉が静かに閉じたあと、しばらくその場から動けなかった。


(ちゃんと“行ってきます”って言えたな)


そう自分に確認してから、部屋に戻り、

明日の目覚ましをいつもより早めにセットした。


翌朝。


まだ外が完全に明るくなりきる前の時間。

玄関を出て、駅へ向かう道を歩きながら、

ポケットの中のスマホを取り出す。


『おはよう

 行ってきます

 ——悠人』


送信ボタンを押して少しすると、

すぐに返事が来た。


『おはよう

 行ってらっしゃい

 気をつけてね

 ——彼女より』


最後の一行を読んだ瞬間、自然と足取りが軽くなる。


(行ってきます。ちゃんと“ただいま”言いに帰ってくる)


心の中で、もう一度そう呟きながら、改札をくぐった。



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あけましておめでとうございます🎉

今年もよろしくお願いしますm(*_ _)m


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