第11話 気づかれたくない視線

 六月の気配が、キャンパスのあちこちに混じり始めていた。

 湿気を含んだ風、曇りがちな空、教室に入り込む空気もどこか重い。


 それに合わせて、学生たちの表情にも少しずつ疲れが浮かび始める。

 レポート、テスト、サークルの行事――「大学生活」というものの本性が、じわじわと牙を見せつつあった。


「……なんか、みんな疲れてますね」


 午前の講義を終えたあと、廊下でぽつりと呟くと、

 隣を歩いていた深雪さんが、くすっと笑った。


「そりゃそうだよ。ゴールデンウィーク明けのテンションで突っ走ったツケが、今くらいから来るんだもん」

「深雪さんは、疲れてないんですか?」

「疲れてるよ。でも、“疲れてるー”って言い続けると、余計しんどくなるから言わないだけ」


 そう言って肩をすくめる仕草が、やっぱり少し大人だなと思わせる。


 俺はといえば――疲れがないわけではない。

 けれど、それ以上に最近は、別の要因で心臓が忙しかった。


(名前で呼び合うって、こんなに威力あるんだな……)


 あの日、カフェで「深雪さん」「悠人くん」と呼び合ってから、

 頭のどこかがずっとほんのり熱い。


 教室で名前を呼ばれるたびに、耳が反応してしまうし、

 ふとした拍子に、その響きを思い出してはひとりで転げ回りそうになる。


 それを人に悟られたくなくて、

 最近は意識して表情筋を制御する技術ばかり磨かれていた。


「悠人ー!」


 そんな中で、唐突に背中を叩かれた。


「うわ」


 思わず前につんのめりかける。


 振り返ると、長谷部がニヤニヤしながら立っていた。

 入学式の日に声をかけてくれた、あの人懐っこい男だ。


「お前さぁ、最近ちょっと楽しそうじゃね?」

「え?」

「顔がさ、なんか“リア充になりかけてる予備軍”って感じ」


 心臓が一瞬で冷える。


「な、何言ってんだよ」

「ほら、今とか。誰かからLINE来るの待ってるみたいな顔してたし」


 図星すぎて、何も言えない。


「……勘違いだ」

「ふーん?」


 長谷部の視線が、妙に鋭くなる。


「じゃあさ。最近よく一緒にいる、あのきれいな先輩と関係ある話じゃないんだ?」


 一瞬、世界が止まった。


「せ、先輩?」

「文学部のさ、背高くて、まとめ髪の。あの人、藤堂先輩だっけ?」


 どうしてフルネームを知っているのか。


「この前もさ、キャンパスの裏のカフェから一緒に出てくるの見たし」

「……見てたのかよ」

「いや、たまたま。たまたま通りかかったら、“おしゃれカフェ×先輩×お前”っていう、情報量の多い絵面が視界に入ってきた」


 最悪のタイミングで最悪の人に見られていた。


「で?」


 長谷部がぐいっと顔を近づけてくる。


「付き合ってんの?」

「違う!」


 反射的に否定する。


「即答。でも、その即答に焦りが混じってるあたり、だいぶ怪しい」

「本当に違うって。ただの先輩で――」

「“深雪さん”って呼んでる相手なんだろ?」


 喉の奥で音が止まる。


「……聞いてたのか」

「この前、図書館の窓際で、すげー甘い空気出してたもんなぁ。

 名前呼びって、見てる方が痒くなるやつだからさ」


 そこまで見られていたのか。


 机に突っ伏したい衝動を、必死で抑える。


「でさ」


 長谷部は急に真面目な顔になった。


「お前がどうしたいのかは、ちゃんと自分で考えといた方がいいと思うよ」

「……どうしたい、って」

「先輩のこと、好きなんだろ?」


 真正面から言われると、逃げ場がなくなる。

 それでも、もう否定はしなかった。


「……多分、そうだ」

「“多分”じゃないだろ」


 笑いながらも、その声には責める色はなかった。


「だからさ。お前が本気で好きになった人なら、俺は応援するけど」

「けど?」

「周りの視線がゼロだと思わない方がいいよって話」


 一瞬、意味が分からなかった。


「お前らさ、気づいてないかもしれないけど、

 最近ちょっと“距離が近すぎる先輩後輩”って感じで、目立ってきてるから」


 胸がざわつく。


「悪い意味じゃないよ。ただ、“なんか仲良さそうだな”って目で見るやつは増えてる」

「……そう、なのか」


 言われてみれば、ここ数日、

 講義終わりの教室でふと視線を感じることがあった気がする。


 自意識過剰だと思って流していたけれど、

 どうやらそれだけでもなかったらしい。


 その日の午後。


 文学部棟のロビーで待ち合わせをして、

 深雪さんと一緒に図書館に向かう途中だった。


「今日、ちょっとだけ早く終わったんだ」

「そうなんですね」

「だから、先に少し資料見とこうかなって思って」


 他愛もない会話をしながら廊下を歩いていたとき、

 前から女子学生たちのグループが近づいてきた。


 そのうちの一人が、ちらりとこちらを見て――

 小声で何かを囁く。


「ねえ、あの子さ……」

「え、藤堂先輩と一緒にいるの、あの一年の子?」

「最近、よく一緒にいるよね」


 足がすくみそうになる。


 けれど、隣の深雪さんは、表情を変えなかった。

 聞こえていないふりをしているのか、それとも本当に気にしていないのか。


「……気になる?」


 エレベーターを待つあいだ、ふいに彼女が聞いてきた。


「え?」

「さっきの。噂っぽい視線」


 真正面から言われると、誤魔化しがきかない。


「……少しだけ」

「そっか」


 深雪さんは、短くそう言ったあと、

 ふっと笑って俺を見た。


「でもね、悠人くん」

「はい」

「私、あんまりそういうの気にしないんだ」


 エレベーターの扉に映る自分たちの姿。

 並んで立つ二人の距離は、一般的な“先輩後輩”としては、

 たぶん少し近い。


「誰かにどう見られるかより、

 自分が誰と一緒にいたいかの方が、ずっと大事だから」


 その言葉は、想像していた以上に重く、温かかった。


「悠人くんは?」


 問いかけられて、息を飲む。


「……俺も、そう思います」


 噂を怖いと思う気持ちが、ゼロなわけではない。

 だけど、それ以上に――


「俺は、深雪さんと一緒にいる時間が好きです」


 それだけは、曖昧にしたくなかった。


 エレベーターの鏡越しに、

 深雪さんが少しだけ目を丸くして、それから頬を緩めるのが見えた。


「……ありがと」


 小さな声だったけれど、

 確かにそう聞こえた。


 図書館の、あの窓際の席。


 今日もそこは空いていた。

 二人で並んで座り、パソコンとノートを広げる。


 しばらくは、レポートや資料を読む音だけが続いた。

 静かな時間。


 けれど、ふと視界の端に、

 こちらをちらちら見ている学生の姿が映る。


(……やっぱり、目立ってるのかな)


 不安が顔に出たのだろう。


「悠人くん」


 深雪さんが、ペンを置き、小さく囁いた。


「はい」

「気になるなら、ちょっと場所変える?」


 そう言って、窓の外を指さす。


「外のベンチ、今空いてるみたいだよ」


 並木道の脇にある、小さな木のベンチ。

 人通りはあるが、座ってしまえばそれほど視線は気にならない場所だ。


「……いいんですか?」

「いいよ。私、今日くらいは少しサボりたい気分」


 それはきっと、俺への気遣いの言葉でもあった。


「じゃあ、行きましょうか」


 二人で席を立ち、静かな図書館を抜け出す。


 外の空気は、思ったよりも涼しかった。

 日差しは少し傾き始めていて、木々の間から差し込む光が柔らかい。


 ベンチに腰を下ろすと、

 深雪さんが軽く伸びをした。


「ふー、やっぱり外の方が落ち着くときもあるね」

「そうですね」


 遠くで、サークルの勧誘らしき声が聞こえる。

 芝生では誰かがキャッチボールをしている。


 穏やかな日常の音が、ざわざわしていた心を少しずつ落ち着かせていく。


「さっきの話だけどね」


 深雪さんが、ふいに切り出した。


「周りの人が何を言うかは、完全には止められないんだ」

「……はい」

「でも、私たちがどうしたいかは、私たちが決めていい」


 そう言って、横を見る。


 風に揺れる髪を耳にかける、その仕草。

 ほどよく力の抜けた横顔。


「私さ、悠人くんと一緒にいるとき、“ちゃんと見てほしい”って思うんだ」

「見て、ほしい?」

「うん。ちゃんと話して、ちゃんと考えて、ちゃんと笑ってるところ」


 胸の奥に、静かな熱が灯る。


「だから、もし誰かに何か言われても――

 私のこと、見ないふりしないでくれたら嬉しいな」


 それは、どこかで自分の過去と繋がっている言葉のように聞こえた。

 誰かに名前を呼んでもらえなかった時間。

 誰かの中で“先輩”のまま終わってしまった記憶。


「……しないです」


 迷いは、あまりなかった。


「俺は、深雪さんのこと、ちゃんと見ていたいです」


 言いながら、頬が熱くなる。

 けれど、その熱からは、もう逃げたくなかった。


 深雪さんは、一瞬だけ目を丸くして――

 やがて、静かに笑った。


「ねぇ、悠人くん」

「はい」

「そういうこと、もっと軽率に言えるようになってもいいんだよ?」


 そう言って、少しだけ意地悪そうに目を細める。


「心臓に悪いです」

「こっちの台詞」


 互いに笑い合う声が、風に流れていく。


 ベンチから立ち上がり、

 キャンパスの出口に向かって歩き出す頃には、

 空の色が少しだけ変わり始めていた。


 周りの視線は、まだ完全には消えない。

 けれど、その中でも。


“誰と一緒にいたいか”を選ぶ権利は、

 確かに自分たちの手の中にある。


 そう思えただけで、

 今日一日の重さが、少しだけ軽くなった気がした。

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