第2話 凍える指先と、一本のコードが繋いだ運命

三年前のソウル。

 地下二階にある練習室は、冬になると「冷蔵庫の中」と同じだと揶揄されていた。

 二十四時間を過ぎても止まない雪が、換気口から冷気を容赦なく送り込んでくる。暖房費を節約するために切られたエアコンの代わりに、私たちは自分たちの体温を分け合うしかなかった。


「……手が、氷みたいだよ。優里」

 床に座り込み、鏡に映る自分たちの影を見つめていた善治が、私の右手を不意に取った。

 冷え切り、感覚を失いかけていた指先が、彼の厚く、熱い掌に包み込まれる。

「だって、今の曲……善治のピッチに合わせようと思ったら、一音も外せないんだもん。緊張して、血の気が引いちゃった」

 私は強がって笑ったけれど、本当は知っていた。

 善治も同じように、震えていたことを。


 デビュー候補生という名ばかりの、不安定な身分。

 毎週金曜日、練習室の壁に張り出される「評価順位表」が、私たちの死刑宣告だった。先週まで一緒にカップラーメンを分け合っていた仲間が、翌朝にはロッカーを空にして消えている。そんな光景を、私たちは何度、無言で見送ってきただろう。


「また、言われたんだ。……歌い方に個性がなすぎるって」  善治が、自嘲気味に呟いた。 「あいつら(審査員)は、僕をただの『器用な人形』だと思ってる。優里のピアノがなきゃ、僕は自分の声がどこから出ているのかさえ、わからなくなるんだ」


 善治の家庭環境は複雑だった。親の期待に応えるためだけに生きてきた彼は、自分の感情を歌に乗せるのが苦手だった。彼が初めて人前で涙を流したのは、一年前、最終選考に落ちて公園のベンチでうずくまっていた時だ。

 あの時、私は壊れた電子キーボードで、彼のために一曲の旋律を弾いた。

 下手くそな演奏だったけれど、彼は私の指先に救われたと言ってくれた。

 そんな荒野のような場所で、私と善治は、互いの存在を「唯一の命綱」にして生き延びていたのだ。


「これ、聴いてくれる? さっき、デモが届いたんだ」

 善治が、使い古されたコートのポケットから取り出したのは、白く細いコードが絡まり合った有線イヤホンだった。

「今どきワイヤレスじゃないなんて、善治らしいね」

「いいんだよ。こっちの方が、音がダイレクトに届く気がするから」

 彼が指先で丁寧に絡まりを解いていく間、私は彼の横顔を盗み見た。

 ダンスで削ぎ落とされたシャープな顎のライン。不安を押し殺すように結ばれた唇。 「はい、優里は左」


 差し出されたイヤーピースを耳に押し込む。そこにはまだ、彼の耳の熱が微かに残っていた。  彼がスマートフォンの再生ボタンを押す。

 流れてきたのは、ピアノの旋律が静かに波打つ、孤独なバラードだった。


 有線の短いコードが、私と善治の頭を物理的に引き寄せる。

 肩が触れ、彼の髪が私の頬を掠めた。

 練習室の隅で、一本の細い糸で繋がれた二人だけの世界。

「このサビの部分さ……」

 善治の声が、音楽に重なって耳元で響いた。吐息が熱く、私のこめかみを打つ。

「歌詞、僕が書いていいって言われたんだ。……優里が、あの日、僕がオーディションに落ちて泣いてた時に弾いてくれた曲のイメージで、言葉を並べてみるよ」

「私のために……?」

「違うよ。僕のために。……君がいないと、僕はもう、自分の歌い方さえ忘れちゃうから」


 善治の手が、私の指をさらに強く握りしめた。  指関節の形がわかるほどの、必死な力。

 その瞬間、私は悟ってしまった。

 この人は、私という伴奏がいなければ、壊れてしまう。

 そして私もまた、彼の歌声という光がなければ、真っ暗な部屋で一人、動かなくなった鍵盤を叩き続けるだけの抜け殻になるのだと。


 事務所の人間は、私たちのこの関係を「共依存」と呼んで嫌った。

 プロとして自立していない、甘えだ、と。  けれど、この「甘え」がなければ、私たちはとっくに地下二階の冷たい空気の一部になって消えていただろう。


「優里。僕が世界で一番大きなステージに立つまで、隣にいて。僕を、完成させて」


 額が触れる。

 重なる吐息。

 有線のコードがピンと張って、逃げ場を奪う。  この時、私たちは間違いなく、二人で一つの「ラブソング」だった。


 ――それなのに。

 私はその数ヶ月後、彼を完成させるために、彼を「捨てる」という最後の伴奏を弾くことになる。

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