ホワイトホールクリスマス
aobuta
1. 2025年12月某日
目の前にはもう1時間も、空白の譜面が表示されたディスプレイが
今日はまだ水曜日だ。あまり夜更しかして明日の業務に響いてはいけないし、寝る前に先ほどアラームが鳴った洗濯機を片付けないといけない。翌朝は空き缶のゴミを出すために3分早く家を出なくてはいけないし、出勤したら9時からのミーティングに備えて資料をざっと読み返さないといけない。
―いけない、いけないばかりになってしまったな。
急にスイは我に返ると、少し寂しそうに微笑んだ。
社会人になって半年と少しになる12月の夜。一人暮らしになって初めての冬を前に、いけないことをする悪い子供のような気分を味わい、それは軽いホームシックにも似ているかもしれなかった。
子供の頃は、毎日を生きるとは、目の前で起きていることに全力で体当たりすることだった。自分の中にある記憶のうち、どれが真実でどれが後から
スイにとって一番の特別な記憶は、後で母に聞いた情報と照合すると、おそらく3歳くらいの出来事だった。
近所の公園で遊んでいたスイは突然行方不明になり、家族が捜索願を届けようと準備していたところ、夕食前に突然家に帰ってきたということがあった。その時のスイは何故かご機嫌で、どこに行っていたのかと父が聞くと、笑顔で「お星さまを見てきたの!」と答えたという。
スイの脳内には、この話とリンクした映像が残っている。
遊具のトンネルに入ったら突然知らない場所に出て、とても怖かった気持ちが最初だった。どこかの室内らしく、白く明るい光が優しくスイを照らしてくれていたが、壁から生えている機器や床に散らばっているオモチャにはまるで見覚えがない。母を探して泣きそうになりながら室内をうろうろしていると、丸型の窓が左右についているのを見つけた。スイは、左側の窓から外の様子を確認しようとした。
そこから見える景色に、スイは息を呑んだ。
その景色に、地面は存在しない。あるのは、暗く透き通った黒の背景と、一面に散りばめられた光の点。光は白く、赤く、また青く瞬きながら、一つ一つが個性的な大きさで、スイの瞳にキラキラと反射した。そうした黒と白の海の中を、この部屋はゆっくりと航海しているようだった。
視界の下の方に何か大きなものがあるのを、スイは見つけた。それはすぐ近くにあるらしく、濃い水色とくすんだ焦茶色の模様をした、大玉転がしのボールのようだった。
これが地球の姿だと知ったのは、スイがもう少し大きくなってからのことだ。
どうやってそこから帰ったのだったか。
そう確か、大人の女性と、尻尾の生えた動物がちょこちょこ歩いて、手を繋いでスイの家の前まで連れて行ってくれた。
女性がスイの方を振り向く。口を開いて何か話かけている。
映像がはっきりしているのはそこまでで、女性の顔や、動物が何の種類だったかは思い出すことができない…
そんな昔の記憶に浸っていると、ディスプレイ上の楽曲制作ソフトが有料版の契約更新をするか確認する画面が出てきて、スイは我に返った。
大学時代は、自分のつくった音楽が何かの間違いで大バズりを起こし、日比谷野外音楽堂で自分の曲をシンガーが歌うのを見ながら、美味いビールを飲める日を夢見たりもしていた。だが、その間違いは起こらなかった。就職活動の時期を迎えいそいそとスーツを購入し、実家の荷物をまとめ、上京して区役所のいち職員となった。
これも一種の走馬灯なのかな…などと思いながらスイが手を伸ばしかけた時。
「データベースによると、貴方は23歳だ。走馬灯を見るには早かろう」
右横から聞こえた突然の声に、スイは椅子からウサギのように飛び跳ねると、「うわああ!」と驚愕の声を上げた。
本能的に左側にパッと椅子ごと飛びのき、声の主を探る。そこに人影はない。
ただし、いつの間にかPCを置いている机の上に、「ヘビ影」ならばあった。
ヘビは黄色く
「律導スイだな。お前はまもなく地球人ではなくなる」
ヘビの突然の登場にも、言っていることも分からず硬直するスイが、目の前のヘビとの間で睨み合いをしていると、奥のクローゼットからゴトゴトと動き回る音がした。
少し開いたクローゼットのすき間から、人類の指がニュッと伸びると、扉の端を掴んで一気に開けられる。
「ラインハルトよ、お前はいつも我を置いて、先へ先へとしたたかに進んでいく。しかしまったく、立て付けの悪い扉だ。おまけに部屋も狭いし。まだ船の中にいるようだ」
クローゼットが全開になると、今度は悪態をつきながら1人の女性が姿を現した。
見た目は、スイより少し年上だろうか。身長は同じくらいに思われた。特徴的なのはその服装で、漆黒色をしたポンチョ風の上着に、これまた飲み込まれそうな漆黒のタイトパンツのようなものを履いていた。
「失礼した、コマンダー。貴方がいつも、無駄な時間は一秒たりとも作るなというものだから」
ヘビは丁寧な受け答えとともに、女性に頭を垂れた。
「船長の到着を待つのが無駄な時間というか、失礼な。それで、目的の場所には正しくコネクトできたのか?」
「イエス、コマンダー。目の前の女が、例のマーフ班の新兵です」
漆黒のコマンダーなる女性は、ラインハルトという名前らしいヘビから紹介を受けると、スイにずいと向き直った。
「これが…マーフの虎の子か?正直、普通の公務員事務にしか見えんが」
ヘビに虎に忙しいなと思いつつ、スイは今の状況を整理する。
このコマンダーとラインハルトはおそらく同じチームで、マーフという人物(?)は別チームのようだ。もちろんスイは、マーフという名前に覚えがない。他方で相手方は、スイの名前をフルネームで知っていた。
つまり相手は、計画的にここを訪れ、スイの不意をついたということ。
それは、自分は今、危険な状況にあるかもしれないということだ。スイの運動能力はお世辞を言っても中の中の下くらいだが、全身に緊張を走らせた。
「時に律導よ、お前は生成AIを使っているか?」
コマンダーから出た次の一言は、スイの予想していた、悪役のよくあるセリフ一覧とは異なるものだった。
「AIですか?…まあ、人並みには」
思わず、間の抜けた返事をしてしまう。
「ふん、大して使いこなせてはいないようだな。どうせお前たちのような若造は、浅い質問で満足し、深く思考の海に潜ることを放棄しているのだろう。そして日々、スマートフォンの前で身体をくねくね動かしては、顔も知らない不特定多数にばらまき、わずかな承認欲求を満たしては貴重な時間を浪費している」
「な…偏見とひがみで凝り固まった老人みたいな発言だな」
スイは、見た目は自分とそう変わらない、平成に取り残された原人みたいな目の前の女性にドン引きした。ヘビのラインハルトはというと、会話に興味がなさそうだ。
スイにこんなに引かれたのが想定外だったのか、ゴホン、と決まりが悪そうに女性は咳払いをした。
「まあいい。あいつが目をつけたということは、それなりに骨のあるやつなのだろう。…そうだ、ちょうどうちの船でも人手を探していたところだ。お前の肉体と脳の大半を改造すれば、我がしもべとして使い物になるだろう」
コマンダーの黒目が、突如として漆黒のように深くなったような気がした。
「お前を本船に連行する」
「…急にゴリゴリの悪役のセリフを出してくるじゃん」
スイはとっさに玄関に走ろうとした。走ろうと太ももに力を込めのだが…足元がまったく持ち上がらない。まるで、鉄の塊になってしまったようだ。
気づけばいつの間にか、コマンダーの手に銃のようなものが握られていた。あの道具を使って、スイに何かしたようだった。
コマンダーの手がスイに伸びる。スイが観念した、その時。
…音は何も聞こえなかった。少なくとも、人間であるスイの耳には。
コマンダーは空中に吹き飛んだかと思うと、そのまま部屋の右隅にあるスイのベッドに叩き付けられた。
「スイ、こっちだ!玄関から走るぞ!」
背後から声が聞こえたのに続けて、太ももから先がいつもの細い足に戻った。スイは玄関の方を振り返る。
廊下の先で、外へと続くドアが開いた。声の主が先行して駆け出したらしい。
ただ一つ見慣れないものとしては…ドアの向こうに姿が消えかけた声の主には、赤茶色の立派なしっぽがついていることだった。
スイは考える。
既に地球の常識を超えている。それでも。
私は、この声を知っている。
ベッドのシーツからもがき出ようとしている女性を背に、スイはこの日、都内ワンルームの世界を飛び出した。
イチョウのイエローカーペットが敷かれる晩秋の夜は冷たく、スイの頬をチリチリと刺した。それでもスイは、少し前を走るしっぽを追いかけて懸命に走る。
その後ろをラインハルトが、身体に浮かぶマダラ模様を獣の目に似た黄色に輝かせ、二つの影を追う。
満天の空に浮かぶ星たちが、今夜の逃走劇の観客となる。
「左に曲がれ!」
前方から指示が飛ぶと、しっぽは90度方向を変えて十字路を左折した。スイもそれに続く。
その先には、自宅から一番近いコンビニエンスストアがあった。しっぽは敷地内に直進し、コンビニの業務用の勝手口を開けて手招きする。ここに入れということらしいが、コンビニの店員さんに頼んで110番でもするのだろうか。
「早く!あのヘビに追いつかれそうだぞ!」
そう急かされてスイは、オリンピック100メートル決勝をゴールするかの心持ちでスパートを切った。
実際には、ドアの手前で蹴つまずき、情けなく転がり込むようにゴールインした。
スイが転んだ痛みにうめき声をあげていると、背後でドアを閉めた音が聞こえた。ほどなく、背中にポンと手を置く感触が…いや、どこなく、それ以外の感触もするような。
「悪い悪い、迎えが遅くなっちまったな。まさかアンドレア班が、スイを先に誘拐しちまおうなんて考えるとは思わなかった」
インドア出身で上がり切った息がようやく整ってくると、スイは自分の部屋を出る前から、ずっと考えていたことをようやく口にできた。
「あなたは…キツネ、なの?」
いかにも、とデニムコートを着たそのキツネは、二足歩行でピンと背を伸ばした。
「地球ではキツネは人間と話をしないか? 俺はお喋りが好きさ。名前はジョンという。改めてよろしく」
ジョンはそう言うと手を出して、スイが立ち上がるのを助けてくれた。ひっかきやすそうな硬い爪と、肉球のぷにっと感に、何だか少し気が抜けた。
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