ノベルリライト

南賀 赤井

プロローグ:白、あるいは絶望の続き



 

 真っ白な天井だった。

 蛍光灯の規則的なリズムが、今の僕に残された唯一の鼓動のように思えた。


 消毒液の匂い。遠くで聞こえるナースカートの車輪の音。そして、自分の指先から「物語」がこぼれ落ちていく感触。


「……一ノ瀬さん、聞こえますか」


 医師の声は、水底から響くように遠い。

 僕の手元には、かつて「新人文学大賞」と記された賞状があった。けれど、それはもうただの紙切れだ。授賞式の壇上に上がる直前、僕の体は崩れ落ち、同時に僕のデビューという未来も砕け散った。

 それから、どれほどの時間を失っただろう。


 書くことを禁じられ、夢から目を逸らし、ただ「生かされる」ためだけに繰り返す入院生活。


『答えのない毎日に 何かを信じていたかった』


 いつか聴いたあの曲のフレーズが、耳の奥で鳴り続けている。


 信じた結果がこれだ。僕の人生は、書き出しの数ページで落丁してしまった欠陥本。もう、言葉なんて、物語なんて、僕には必要ないはずだった。


 そんなある日の、外出許可。


 僕はリハビリを兼ねて、街の小さな図書館にいた。


 そこで、僕は見てしまったのだ。

 

 新刊コーナーの特設棚。色鮮やかにデザインされたその本の帯には、見覚えのある名前と、僕がかつて夢見た言葉が踊っていた。


『累計〇〇万部突破! 待望のアニメ化決定――!!』


 それは、同じサイトで競い合い、いつか肩を並べようと約束したライバルの「その後」だった。

 

 一瞬、視界が真っ赤に染まった。

 嫉妬ではない。いや、嫉妬ですらない。

 僕の魂が、喉が、指先が、怒号を上げている。


(……まだ、終わってない)


 心臓が不規則に、けれど激しく脈打つ。

 医師の忠告も、絶望的な診断書も、今の僕には関係なかった。


 僕は震える手で、ポケットから古びたスマートフォンを取り出し、メモアプリを開く。


 一文字。


 たった一文字、カーソルが点滅する白の静寂に、言葉を叩きつけた。


 たとえこの命が、メディアミックスの最後の一秒に届かず尽きようとも。


 僕はもう一度、僕の「人生という名の夢(Dream of Life)」を書き始める。


 ――リライトだ。


 ここから、僕の生存証明を始めてやる。


それから数ヶ月が過ぎる。かつての「受賞者」という肩書きは、現実の前では何の役にも立たなかった。


再始動して半年。湊はコンビニの深夜夜勤と、早朝のスーパーの品出しを掛け持ちしながら、その合間を縫うようにキーボードを叩いていた。


レジ打ちで酷使した指は強張り、品出しで痛めた腰が悲鳴を上げる。深夜、廃棄の弁当をかじりながら、狭いアパートのPC画面に向かう。


投稿サイトに新作を上げれば、数百の「いいね」はつく。固定のファンは「面白いです」と言ってくれる。けれど、そこから先へ行けない。


出版社の公募に送っても、最終選考の壁に弾かれ、一次選考で落ちることさえあった。


「……また、ダメか」


画面に映る『落選』の二文字。


かつてのライバルは今やアニメの第2期が決まり、街の広告にはその作品のキャラクターが微笑んでいる。自分はと言えば、名もなきフリーターとして、ただ命を削りながら「文字のゴミ山」を築いているだけではないのか。


心臓の奥が、ぎりりと痛む。


無理な労働と執筆が、着実に湊の寿命を削っていた。


もう、潮時なのかもしれない。夢を追う体力も、自分を信じる気力も、すり減った靴底のように薄くなっていた。


雨の降る、冷え切った火曜日のことだ。


バイト帰りの深夜、重い足取りでアパートの階段を上る。


湿った郵便受けの中を確認すると、公共料金の督促状に混じって、一通の「白い封筒」が入っていた。


宛名は、湊のペンネーム。

差出人の名前はない。

玄関の冷たい床に座り込んだまま、震える指で封を切る。


中には、便箋一枚に、たどたどしくも丁寧な文字が並んでいた。


「一ノ瀬先生へ。

はじめてお手紙を書きます。

私は、先生が数年前に書いたあの未完の作品で、人生を救われた者です。


先生が書くのをやめてしまったあの日から、ずっと寂しかったです。


でも、昨日、新しいサイトで先生の名前を見つけました。


先生、また物語を書いてくれてありがとうございます。たとえ世の中の誰もが忘れても、私はあなたの言葉が世界で一番大好きです。


先生の物語の続きが、いつか動いて、喋って、たくさんの人に届く日を、私はずっと信じています。」


「…………っ」


視界が、急激に歪んだ。

ボロボロの便箋に、涙が大きな染みを作っていく。


『答えのない毎日に 何かを信じていたかった』


耳の奥で、またあの曲が鳴った。

信じていたのは、自分だけじゃなかった。

自分の言葉は、届かない空砲なんかじゃなかった。

湊は、這いつくばるようにしてPCの電源を入れる。

青白い光が、涙で濡れた顔を照らす。

 

胃はキリキリと痛み、体は重い。けれど、指先だけは熱かった。


メディアミックス。アニメ化。そんな遠い夢を、もう一度だけ、本気で掴み取ろうと決意した。


この一通のファンレターを、最強の「御守り」にして。


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