第5話
雨の日の散歩なら、もう何百回も経験している。青春イベントを逃さないために収集した雨宿りスポットもすべて頭に入っている。サトルは脳内マップを枝切りし、梅のいそうな場所に目星をつけた。
……とはいえ、潰れた八百屋の軒下にしゃがみこむ彼女を見つけられたのは、僥倖としか言いようがなかった。
安堵の息を吐き、傘を彼女の頭上にかざした。
「この時期は持ち歩いたほうがいいですよ」
「……そうだね。気をつけるよ」
一瞬目を丸くした梅は、そう言ってほほえみ、真っ赤に焼けただれた腕を伸ばした。
受け渡しの瞬間、かすかに触れる指。サトルはその冷たさに驚きつつ、平静を装って彼女の隣、ひとりぶんの距離を開けてしゃがんだ。
「もしかして、南美との会話、聞こえてましたか」
「気にしないで。わたしから見てもあの子が正しいよ。しっかり者の妹ちゃんで安心だね」
「……たしかに、俺には過ぎた妹です」
自慢の妹を褒められて悪い気はしない。が、
「南美なら大丈夫です。あいつはああ見えて、ずっと、姉が欲しいって言ってたんです。母さんが死んで、父さんも仕事で家にいなくて、なのに俺が頼りなくて、だから甘えれる相手が欲しいんです」
「きみたち、どっちが年上かわかんない感じだったもんね」
苦笑する梅。
「絵の師匠もヤンキーみたいな人で、正直俺は怖くて苦手なんですけど、南美は怖がるどころかすごい懐いてて」
サトルはいったん言葉を切る。胸に手を当て、深呼吸を挟み、言った。
「だからたぶん、越ノ間さんのことも好きになります。身の安全が確保できるまで……せめて怪我が治るまで、うちにいてくれませんか」
「ありがと」
梅は柔和に笑んで、そう言った。
それは、やんわりとした、しかし、これ以上ない拒絶だった。
うつむくサトル。
ふたりの間に沈黙がおりる。
降り続ける雨。
梅がぽつりと言った。
「わたし、雨の音、好きなんだ」
「……そうなんですか」
少し意外だった。
彼女の体質ならば雨を憎んでいてもおかしくない。そう思ったから。
「いろんな場所で、いろんな音がするでしょ。同じ音はひとつとなくて、森なら森の、都市なら都市のよさがあって。昨日も駅で、本を読んではいたけど、半分くらいは雨の音を聞いてたんだ」
「じゃあ、あのとき、俺が近くに来てたの、気づいてたんですか?」
「さあ、どうでしょう」
いたずらっぽい顔をする梅。それからうつむき、静かに言った。
「ね、雨に打たれるって、どんな感覚?」
「……まあ、基本、いいことはないですよ。服がベタベタ貼りついて気持ち悪いですし、時期によっては寒いですし」
「そっかあ」
頬を膝に乗せこちらを向く。
「すごいと思わない? わたし、二百五十年も生きてきて、一度も雨に打たれたことないんだよ」
「雨、打たれてみたいんですか」
「うん」
梅は眉を垂らし、感傷的に笑った。
かなわぬ恋に焦がれる少女。そんな顔だ。切実で、苦しくて、希望を捨てきれず、絶望に泣いている。
「みんなが雨をイヤがるのも、わかるよ。けど、やっぱり憧れる。……憧れちゃうよ」
傘の外へ向けて手を伸ばし、見えない壁に阻まれたように引っこめる。
「……実はね。ひとつだけ、触れることのできる雨があるみたいなの」
梅が両手で傘を握りしめ、ひとりごとのようにつぶやいた。
「ずっと昔に聞いた話。わたしの故郷に降る雨には、触れることができるんだって」
「でも、たしか、雨が降らないって」
「うん。二百五十年間ずっと待ってたんだけどね」
痛みをこらえるような表情。
サトルはうつむいた。
こういうとき、どう言ったらいいのだろうか。
慰めるべきか、あるいは励ますべきか。よかれと思って放った言葉が深い傷になることもある。ならば、無言で寄り添うべきかもしれない。しかし、そんなものが役に立つのだろうか。
……いや、傲慢か。
自嘲した。
自己評価が高すぎだ。
二百五十歳の少女にとって、自分など無関係に等しい人間なのだ。
ならば話は単純。
「――俺、青春に憧れてるんです」
言いたいことを言えばいい。
「うち、親が漫画好きで。ジャンプマガジンサンデー花ゆめマーガレットあたりは必ず家に転がってたんです。だから俺も物心ついたころから読んでたんですけど、その手の漫画って、たいてい高校生が青春するんです。越ノ間さん、読んだことありますか?」
「え、あ、うん」
突然の話題転換に、戸惑いつつ肯定する梅。
「わたし、ブックオフでよく立ち読みしてるから。ラブコメでもファンタジーでもスポ根でも、そのあたりの雑誌は、だいたい十代後半の少年少女がさわやかな感じで楽しそうにするシーンあるよね」
サトルは大きくうなずいた。
「俺、昔から人見知りで友だちがぜんぜんいなかったんです。誰かの家で遊ぶとかもなくて、学校が終わったらいつもまっすぐ帰って、家で漫画を読んだりテレビを見たりネットするばっかりで。だから物語で描かれる青春にすごい憧れがあったんです。高校生になったらこんな楽しいことがいっぱいあるんだろうな、早く高校生になって青春したいなってずっと思ってたんです。でも、」
「ええと、ごめん、少し待って」
早口に話し続けるサトルを梅が遮った。
「ひとつ確認したいんだけど、きみ、ほんとに人見知り? マシンガンみたいにしゃべってるけど」
「あ、すいません……」
知らぬ間に早口になっていたことに気づき、サトルはしゅんと肩をすぼめる。
「越ノ間さんがしゃべりやすい人なので、つい。実際、最初はそうでもなかったでしょう」
「……たしかに。いきなり部屋の外に駆けだしてくから、なにがあったのかと思ったよ」
「あと、お好み焼きが大惨事になってそれどころじゃなくなったっていうか、慣れたっていうか」
「……そっちは言わなくていいと思うな」
つん、と不満げにそっぽ向く。
サトルは苦笑しつつ、意識的に話速を緩めて続けた。
「で、ですね。考えるまでもない話ですけど、漫画ばっかり読んでた人見知り陰キャが高校生になったところで、青い春がやってくるわけもないわけです。代わりにきたのは、灰色のよくわかんない季節でした。もちろん納得なんてできないので、見た目を整えたりして、なんとか頭よさそうに、格好よく見えるようにって頑張ってはいるんですけど、どうもうまくいかなくて……」
「あ、それで」
梅が、得心いったと手をひとつ叩いた。
「『どうして頭よさそうに見えるのか』って言ってたの、そういうことだったんだ」
サトルはうなずいた。
「越ノ間さんみたいになれば、青春できるかなって」
「残念だけど、わたしも友達いないよ」
「……終わりだ」
頭を抱えるサトル。
梅がカラカラと笑った。
「大丈夫だよ。まだ若いんだから。勇気だして声かけたら、友達になってくれる人もいるよ」
「そうですかねえ……」
「うん。きっとね」
そう言ってほほえみ、正面へ視線を向けた。
「そろそろ雨、やみそうかな?」
彼女の言うとおり、気づけば雨音が小さくなってきていた。
タイムリミットが、近い。
サトルは勇気を奮い立たせ、本題を切りだした。
「俺、人一倍青春に憧れてるから、ずっと、誰よりも青春について考えてたんです。それで、強く主張したいことがあるんです」
そこでいったん言葉を切り、傘ごしに空を見あげ、言った。
「雨って、青春だと思いませんか」
「……?」
ピンとこない様子の梅。
「俺、漫画や小説を読んでると思うんです。というか越ノ間さんは思いませんか? 雨って青春だなって。ドラマチックなシーンで、よく降ってるじゃないですか」
「あー……なるほど?」
目を瞬かせ、なるほどとうなずく。
「俺、雨って青春の一番のキーアイテムだと思うんです。いいほうにも悪いほうにも使えて、最高のシチュエーションを演出してくれますよね」
「言われてみると、たしかにねえ。相合傘したり、バス停で雨宿りしたり」
「喧嘩してるときに雨が降ったり、雨あがりの陽射しがまぶしかったり。風邪ひかないようにお風呂を借りるのもいいし、風邪をひいて看病したり、キッカケにもなります」
「あるある」
「……それでですね、俺、やりたいことがあるんです」
顔を赤くし、サトルは、つっかえる喉を叩いた。
怪訝そうに首をかしげる梅。
サトルは大きく深呼吸して、藍色の瞳をまっすぐに見つめ、言った。
「越ノ間さん。いつか……俺と一緒に、雨のなか踊ってもらえませんか」
「…………」
口をぽかんと開ける梅。
沈黙。
彼女は視線をアスファルトに落とした。
「踊ってみたいよ。だけど、わたしは……」
「雨に打たれるための方法、俺も探します」
「無理だよ」
キッパリと、短い否定。
「二百五十年探して見つからなかったんだもん」
「でも、あと一年探したら見つかるかも」
「見つからないよ。日本全国、あっちこっち行って調べたけどダメだったもん」
「それは、ないってことの証明にはなりません。白いカラスだって、世界中探したら一羽くらいいるかもしれませんよ」
「そうかもね。けど、もう、いい。疲れちゃった」
「なら、俺がひとりで探します」
「…………」
梅が表情を消して黙りこんだ。
サトルは目をそらさない。
やがて彼女は、挑発的に口角をあげた。
「きみ、わたしのこと好きなの?」
「……えっ!?」
サトルは口を大きく開け、「えっ、や、その、ちがっ……」早口に言葉を並べた。
「べべべつに、そういうわけじゃなくて、雨の価値をわかってくれる人と初めて会ったからこの感覚を共有したいって思っただけで、ていうか俺なんかがそういうのはちょっと悪いっていうか特に下心はなくて、つまりえっと、そういう感情じゃなくて、シンプルに雨のなか踊りたいなって思ってただけで、青春したいなって思」
「あははははは!」
自分でもなにをしゃべっているのかわからないままにまくしたてていると、大きな笑い声に遮られた。
サトルは、なにがなんだかわからず目を丸くする。
お腹をおさえ、目尻をぬぐう梅。
「ごめんごめん、少しからかいたくなっちゃっただけ」
「え、いや、その」
「はあ~、まったく、きみは頑固だね」
彼女は膝に頬を乗せて言った。
「……それって褒めてます?」
「褒めてる褒めてる。最上級の賛美」
嬉しそうな顔。
それから梅は、すっと表情を引き締めた。
「ひとつ、約束してほしい」
藍色の瞳でまっすぐに見つめ、告げた。
「次、わたしが襲われたときは、見捨てて」
「……え」
「わたしのせいで誰かが傷つくのはイヤなんだ」
そう言って哀しげにほほえむ。
「…………」
顔を見ればわかる。彼女は本気だ。本気で、自分を見捨てて逃げろと言っている。
たぶん、ここで断れば彼女は、強引にでも離れようとするだろう。
ならば了承するのが正解。サトルの本心がどうあれ、いったんは条件を受け入れるべきだ。
「……イヤです」
しかし、わかりましたとは言えなかった。
言いたくなかった。
「自分かわいさに見捨てるなんて、そんなの、一番ダサいやつのやることです」
まっすぐに見つめ返し、正直な気持ちを口にした。
「ちがうよ」
梅の表情は冷たい。
「きみには、妹ちゃんを守る義務がある。だから、わたしなんかのために危険を冒すべきじゃない。妹を守る格好いいお兄ちゃんでいるべきなんだよ」
「南美を守るのは当然です。でも、そのうえで逃げません」
「きみの手のひらは、そんなに大きくない」
砥がれた刃物を思わせる、鋭い声。
「これは、人生の先輩としての助言。身の程を知らないと、一番大切なものを失うよ」
「…………」
ロジックはわかる。
そうだろうなと直感的にも思う。
しかし、やはり、首を縦に振ることはできない。
肯定したくない。
「……はあ」
梅が呆れたようにため息をついた。
「そもそも、きみはわたしを知らないでしょ。どうするの? わたしが世界を乱す極悪人で、ひげの人が正義だったら」
「そんなわけ、」
「ないって言える? どうして?」
「それは……」
「もし、あのとき、わたしがひげの人を圧倒してたら、きみは、ひげの人を助けた?」
「…………」
黙りこむサトル。
気づけば雨がやんでいた。
梅は、ほの暗い光をまなざしに乗せ、言った。
「きみのそれはね、優しさでも誠実さでもないよ。お腹を空かした野良猫にエサをやっただけ。ただの、無責任で短絡的な行動だよ」
「…………」
たしかに、野良猫みたいだ。
サトルはそう思った。
二百五十歳の少女はいま、毛を逆立てて、鋭い爪を振り回して、進んで孤独になろうとしている。
「雨やんだね」
そして、同時にもうひとつ理解したことがある。
「傘、返すよ」
この人は、他人に頼ることを極度に嫌っている。
お好み焼きのときもそうだった。やたらと助力を拒否したのだ。自分ひとりでやると。ソファでゆっくりしててと。明らかに危ない手つきで、料理初心者みたいな危うさで、なのに、サトルがどれほど手伝いを申しでても頑なに拒んだ。
「いろいろお世話になったね。ほんと、ありがと」
怖がりなのか、不器用なのか。
あるいは彼女は、彼女自身をキライなのかもしれない。
「じゃあ、わたし、もう行くね」
立ちあがる梅。
サトルはポケットからぐにょぐにょに溶けたチョコを取りだし、言った。
「越ノ間さん。チロルチョコ、くれたじゃないですか」
「……?」
「野良猫は、そんなことしません」
藍色の目が大きく見開かれた。
「……なにを言ってるの、きみは。そんな、どこでも買える三十円のチョコのために、身体を張るっていうの?」
「こんな、どこでも買える三十円のチョコが、なぜか食べれないんです」
サトルは、手のひらのなか、形のゆがんでしまったチロルチョコを見つめて答えた。
「この感情がなんなのかは、よくわかりません。でも、野良猫に対してこうはなりません。越ノ間さんだから、なんです」
「…………」
互いのまなざしが正面からぶつかる。
どれほどそうしていただろう。
車が三台通り抜けて、パトカーのサイレンが遠く響いて、それから静寂がふたりの間に沈んだ。
梅が、ふっと頬を緩めた。
「わたしね、苗字がキライなの」
「えっ?」
「だから、名前で呼んでほしいな」
「……えっと、梅、さん」
「さんはいらないよ。それと、敬語も」
「……わかった。梅」
「うん。これからよろしく、サトル」
彼女はやわらかくほほえんだ。
「雨のなか踊れる日、楽しみにしてる」
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