十
冬の午後、カフェのテラス席で俺はホットコーヒーを両手で包んでいた。カップの熱が指先にじんわり染み、苦い香りが鼻腔をくすぐる。
向かいのビルのガラスに夕陽がオレンジに反射して、街全体が薄暮の色に溶けかけていた。まだ早い時間なのに、風が冷たく頬を撫でる。
足音が近づいてきた。少し乱れた息遣い。
「ごめん、待った?」
陽菜の声だった。駆け寄ってきた彼女の頬は、走ったせいか赤みが差しているはずなのに、どこか青白く見える。
長い髪が肩で揺れ、息が白く震えていた。俺は無言で、自分の前に置いてあったカップを差し出した。
「温かいうちに、飲んで」
陽菜は小さく笑って、椅子に腰を下ろした。カップを両手で包み、そっと口をつける。ふうっと吐く息の音が、静かなテラスに響いた。唇がカップの縁に触れる様子を、俺はぼんやり見ていた。
「……甘いね」
小さな声。からかうような響きが混じっていた。俺は視線を逸らしながら、ぽつりと言った。
「陽菜の歌……もっと、聞きたい」
陽菜のまつ毛がわずかに震えた。カップをテーブルに置き、指先で縁をなぞる。木目のテーブルが、カフェの暖かい照明に柔らかく照らされている。コーヒーの香りが、ゆっくりと俺たちの間に漂った。
「私も……幹也くんのギター、弾いてる姿、好きだよ」
沈黙が落ちた。でも、それは重くなかった。陽菜がふと笑った。
「中学のとき、よく傷ついてたよね。私も、幹也くんも」
俺はうなずいた。陽菜は一つ下の学年で、学校も違う。でも、お互いに他人を信じられなかった時があった。陽菜は部屋という殻にこもって。俺は上辺という殻にこもって。
あの頃の傷が、まだ胸の奥で疼く。でも今、こうして向かい合っていると、それが少し遠のく気がした。
「でも、今は違う」
彼女の瞳に、オレンジの灯りが映っていた。小さな星のように。
そのときだった。
「この人が陽菜の好きなギターの人?」
甲高い声が、突然割り込んできた。金髪を肩にかけた少女が、耳のピアスを小さく揺らしながら近づいてくる。
派手なネイルが照明をチカチカ反射し、手には半分残ったサンドイッチが握られていた。パンの耳が少し乾いた匂いが、ふわりと漂ってきた。
陽菜が満面の笑みを咲かせる。
「真奈ちゃん!」
「陽菜どうしたの?デート中に呼ぶなんて」
彼女は躊躇なく空いた椅子を引き、どっかりと座った。サンドイッチをテーブルに置き、無邪気に手を振る。ネイルがまた光を弾いた。
陽菜が俺を見て、紹介した。
「あ、紹介するね。鈴木 真奈ちゃん、私の同級生で、すっごく仲良しなの。真奈ちゃん、こっちが佐藤 幹也くん。一つ上の先輩」
彼女がにやりと笑って、俺を上から下まで眺めた。高めの声で、からかうように。
「へー、幹也くんね。よろしくー。なんか冴えない感じだけど、かっこいいじゃん。ギター弾けるんだって? 陽菜から話聞いてたよ」
タメ口だった。ギャルっぽい見た目そのままに、敬語なんて使わない。俺は少し面食らいながら、軽く頭を下げた。
「……はじめまして、真奈さん」
陽菜がくすくす笑う。彼女は悪戯っぽく舌を出し、陽菜の頭を軽く撫でた。手のひらが髪を梳く感触が、頰を少し赤らめた。
「……陽菜、最近疲れやすいよね。大丈夫?」
彼女の声が急に低くなった。目が潤んでいる。近くから、ミントガムの爽やかな香りが漂ってきた。陽菜は慌てて笑顔を作った。
「大丈夫だよ。ちょっと走ってきただけ」
でも、陽菜の息がまだ少し上がっているのが、俺にもわかった。
それはさておきと話題を変える彼女。
「ねえ、幹也くん。陽菜と私、いつから友達だと思う?」
俺は首を傾げた。陽菜が、恥ずかしそうに口を開く。
「高校に入ったとき、真奈ちゃん、見た目が派手でみんな距離置いてたの。でも私はそんなの気にしなくて。ネイルが可愛くて、『一緒にランチしない?』って声をかけた」
陽菜が笑った。少し照れくさそうに、彼女は大げさにため息をつく。
「そうそう。あのとき、陽菜がいなかったら、私、友達できなくて泣いてたよ。陽菜のおかげで、学校が楽しくなったんだよね」
彼女はもう一度、陽菜の頭を撫でた。陽菜が「恥ずかしいよ!もう真奈ちゃんったら!」と小さく抗議する声が、テラスに軽く響いた。
三人の会話は、軽やかに続いた。コーヒーが冷めていくのも忘れて。
だが、その穏やかさは長くは続かなかった。
「よぉ、幹也。久しぶりだな」
低い声が背後から響いた。俺の背筋が凍った。振り返ると、そこに純也が立っていた。昔と変わらない鋭い目つき。だが、その奥に、一瞬、何かが揺れたように見えた。
喉が締まる。中学の記憶が、鮮明に蘇った。あの裏切り。あの言葉。
「……なんでここに居るんだ。また殴るというならここじゃなく表に出て話を聞いてやるよ」
声が震えた。純也の顔が、わずかに歪む。
「何だよ、まだ根に持ってんのか」
純也の瞳が、罪悪げに揺れたように見えた。でも、すぐに強がる表情に戻る。俺にはわからない。ただ、胸の奥がざわつく。
彼女が立ち上がった。
「ちょっと、ケンカすんなよー!」
指をポキポキ鳴らしながら、二人の間に割って入る。関節の音が小さく響き、悪戯っぽい笑顔だったが、目は本気だった。
「ここ、公衆の場だよ? やめなって」
純也は一瞬、陽菜を見た。彼女の青白い顔を。そして、何かを感じ取ったのか踵を返した。
去り際に、誰も聞こえない小さな声で、何か呟いたように見えた。
俺は椅子に座り直した。心臓がまだ激しく鳴っている。どうせ失うのなら、上辺だけでいい——そんな思いが頭をよぎる。
「大丈夫?」
陽菜の手が、テーブルの下でそっと俺の手を握った。温かかった。柔らかかった。指先の感触が、俺の冷えた手に染み込んでくる。
カフェの窓から差し込む光が、陽菜の顔を照らしていた。頬の青白さが、少し和らいでいるように見えた。
俺たちは店を出た。空はすでに夜に移り変わりかけていて、街灯が点き始めている。並んで歩く足音が、静かに響く。
過去は重い。でも、陽菜は俺の“一等星”だ。暗い夜でも、ちゃんと輝いて、俺を前に進ませてくれる。
その手の温もりが、確かに伝わっていた。
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