七
私は彼が好きだ。
最初は歌う姿に惚れた。あの狐の仮面の下で掠れた声が響く瞬間、弦を弾く指の動きに。
今は、喋る姿。先輩と呼ぶと振り向く時の、少し照れたような目。デートの時は予定を決めていないように見えて、最後の最後にさりげなくエスコートしてくれる姿。
でも、この恋は成就しないのではないかと思ってしまう。
時々先輩は暗い表情を見せる。それはまるで拷問される前の、静かな恐怖感。胸の奥がズキンと痛むような、息苦しい影。
人と関わるのが苦手なのか、先輩に何かあるのは、この前のあの男とのやり取りでわかった。
だが、そこは地雷原のようで、踏み込んではならないと脳の警報が鳴り響く。心臓がドクドクと速くなり、喉が乾いて言葉が詰まる。
先輩と会えば会うほど、私たちの間は縮まらないように感じる。
他の人よりもちょっとだけ近いだけの平行線。
指先が触れそうなのに、決して交わらない。
ここまで来ても、化学変化なんて起こらないのだろう。
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「幹也先輩、早く!!」
「まだ時間あるやん……うっ、食べたばっかりやから吐きそう」
私はパンフレットやグッズがすぐに売り切れてしまうので焦っていた。
早くと手振りしながら急かしてしまう。足音がロビーの床にタタタッと響き、息が上がって喉が熱い。
映画を見る前にパンフレットは欲しかった。なぜなら、さらに面白く見れるらしいから。
売店で二冊買う。紙の表紙が少し湿って、手に柔らかく張り付く感触。
次にポップコーンと2人分の飲み物のカップルセット。
「安いからこれでいいやろ?」とさりげなく頼む先輩の姿に、好きな気持ちが噴水のように湧き上がる。胸が熱くなり、頰が火照る。
ポップコーンのバターの濃厚な香りが鼻をくすぐり、熱々の粒が指先をじりじりと焼く。塩気が残り、甘じょっぱい風味が鼻腔いっぱいに広がる。
「あれ? もう始まってる?」
「上映前の予告とか流してるだけですよ。ほら」
私はスクリーンに映し出される光の帯を指さす。
来月上映!!という大きな文字が白く輝き、予告の爆音が耳を圧する。低音の振動が座席を通じて体に伝わり、背中がビリビリする。
「赤松さん、危ないから足元見てな」
「えっ? あ、ありがとうございます」
先輩が私の手を握って席まで引っ張ってくれる。
暗闇の中で、手のひらがとても温かく、少し汗ばんでいる。指が絡む感触が心地よく、心臓の音が耳元でうるさい。
私の顔は赤くなっているはずだ。頰が熱く、息が浅くなる。
映画館の雰囲気が好きだ。
上映が始まると、みんなの視線が前を向き、人の気配が遮断されるほどの閑静さ。
まるで自分だけが貸し切ったように没入できる。
無限に続くトンネルのようで、空気が少し冷たく、ポップコーンの油っぽい匂いが薄く漂う。
ドアの隙間から覗き見したいような好奇心で、先輩の表情が見たくて心が疼く。
でも恥ずかしさが勝って、視線をスクリーンに固定する。
感動の場面で、私は涙ぐんだ。
目頭が熱くなり、涙が頰を伝う感触。塩辛い味が唇に触れる。
その時、先輩の表情は今でも忘れられない。
顔は至って変わらないが、手水舎のように清らかで、でも暖かい涙をすっと流していた。
頰を伝う一筋の涙がスクリーンの光を反射してキラリと輝く。
息を潜めた先輩の肩が微かに震え、吐息が小さく漏れる音が聞こえる。
その時の先輩はどう感じたか。
もっと先輩を知りたい。
地雷原なぞ知らない。
恋という武装をして、この溢れ出る気持ちで踏み込みたくてたまらなかった。
胸が熱く疼き、手のひらが汗ばむ。
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「映画、良かったですね。先輩!」
「ん? そうやな。」
「この後どうします?」
「俺、夜したいこと出来たから解散でもいい?」
「いいですよ! また行きましょうね?」
「了解! あ、これタクシー代。父親が渡せってうるさくてな、受け取って! ほなな!」
映画見てからというもの、先輩の様子が何かを隠すように空元気に見え、心配になる。
五千円札を私の手に置いた瞬間、手のひらの温もりが残る。
先輩は陸上部並みの走りで、その場から逃げるように去って行った。
足音がロビーに遠ざかり、ドアの開閉音が響く。
でも私は次のデートの約束を確約できた嬉しさから、その心配は一瞬消えてしまった。
帰り道、タクシーの窓から見える地元の景色が違って見えた。
薄暗い夕焼けが空を赤く染め、既に光っている星がちらちらと瞬く。
過ぎ去って行く車のエンジン音が低く響き、シートに体を沈めると柔らかい布地の感触。
風が窓の隙間から入り、頰を優しく撫でる。
先輩のことを好きだと痛感した私は、すべてが心地良く感じた。
胸の奥が温かく、涙の跡がまだ頰に残る塩辛い感触さえ、愛おしい。
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