第1話:ビニールの軋み、鉄の匂い
第1話:ビニールの軋み、鉄の匂い
夜。板橋の静かな住宅街。寝室の闇の中で、美智子は石のように硬直していた。 わずかに寝返りを打つたび、「カサ……カサ……」と、腰の下に敷いたビニールの擦れる音が鼓膜を刺す。
今夜もまた、あの「氾濫」が始まっていた。 子宮筋腫という、自分の内側に巣食った不格好な肉の塊が、美智子の命そのものを絞り出しているようだった。ドロリと、熱い塊が滑り落ちる感覚。夜用の大きなナプキンも、夜用ガードルも、もはや気休めにもならない。腰にゴミ袋を切り裂いたビニールを巻き、その上に古いバスタオルを敷いて、ようやくシーツへの汚染を食い止めている。
(……惨めね)
美智子は天井を見つめた。闇に慣れた目には、天井の木目が、自分を嘲笑う巨大な怪物のように見えた。 隣のベッドからは、夫・和夫の規則正しいいびきが聞こえてくる。彼は知らない。美智子が今、文字通り「血の海」の中で、貧血による動悸と、内臓を雑巾絞りにされるような激痛に耐えていることを。
「……ううっ……」
不意に鋭い痛みが走り、美智子は腹を抱えて丸まった。 お風呂に入らなければ。清潔にしなければ。 頭では分かっている。けれど、体は鉛のように重く、寝返り一つ打つのに、崖を登るようなエネルギーが必要だった。一週間、お風呂に入れていない。脂ぎった髪が枕に張り付き、体からは自分の血と、古い脂の匂いが混ざり合った、鉄臭い匂いが漂っている。
うつ、という霧が脳を支配していた。 立ち上がろうとすると、心臓が「行くな」と警告するように早鐘を打つ。 お風呂の椅子に座ることさえ、今の美智子にはエベレスト登頂と同じくらい不可能なミッションだった。
「……あ、あ、ああ……」
言葉にならない声が漏れる。 女であることを呪いたかった。 産む機械として期待され、更年期になれば用済みと言わんばかりに体が壊れていく。役割ばかりを押し付けられ、中身がボロボロになっても、「ちゃんとした主婦」であることを求められる。
翌朝。 和夫は、美智子がまだ布団から出られないのを見て、苛立ちを隠さず言った。
「飯は? それに……なんだよ、その格好。ビニールなんて巻いて。掃除する身にもなれよな」
和夫にとって、それは「整理整頓」を求める正当な苦情のつもりだった。 だが、その一言が、美智子のコップに残っていた最後の一滴を、無残に弾き飛ばした。
和夫は和夫で、焦っていた。 56歳。会社ではリストラの足音が聞こえ、自分もいつ「不要」とされるか分からない。家くらいは、完璧な「安息の地」であってほしかった。妻が病んでいるのは分かっているつもりだが、それがこれほどまでに「グロテスクな現実」であることを、彼は受け入れたくなかった。 逃げたかった。分からないから、怒るしかなかった。
「……ごめんなさい」
美智子の喉から出たのは、謝罪だった。 それは、自分を救うための言葉ではなく、これ以上の攻撃を避けるための、死んだふりに近い謝罪だった。
耳元で、かすかにあのリズムが鳴り始める。 トントン、ツーツーツー、トントン。
ギリギリのダンス。 美智子は、ビニールの中で静かに震えた。 物語はまだ、暗闇の底にある。
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