第八話:歩道橋の途中で ――信号までは遠すぎる――

第八話:歩道橋の途中で ――信号までは遠すぎる――


 十二月二十三日。冬至が明け、わずかに陽が延び始めたはずの空は、泣き出しそうな灰色に染まっていた。  美智子は一年ぶりに、外出のためのコートに腕を通した。昨夜、自分で煮込んだスープが、微かな勇気の火種となって彼女の背中を押したのだ。


 行き先は、陽子が待つ駅前のカフェ。  LINEで「どうしても会いたい」としつこく誘われ、断り切れなかった。いや、本当は自分でも試したかったのかもしれない。今の自分が、外の世界でどこまで立っていられるのかを。


 駅へ続く大きな通りに差し掛かったとき、美智子の足が止まった。  目の前には、古びた歩道橋が聳(そび)え立っている。


「……階段を、昇らなきゃいけないのね」


 一歩、一段。脚が鉛のように重い。更年期の眩暈が、手すりを掴む指先に冷たく伝わる。  階段の途中で、美智子は動けなくなった。  眼下には、渋滞している他府県ナンバーの車列。絶え間なく流れる排気ガスの匂いと、無機質な走行音。誰もが目的地へと急ぎ、自分だけがこの中吊りのような場所に、ひとり取り残されている。


「無理なんかしなくても、こっち側を……今まで通り、和夫さんの顔色を窺って、陽子さんの話に頷いていれば、それなりにしあわせでいられるのに」


 歌詞のフレーズが、冷たい木枯らしに乗って脳裏を掠める。  通りの反対側。そこには何が待っているのか。  陽子に会えば、また孫の話、子供の話、今の自分には眩しすぎる「正解」の刃が突きつけられるだろう。  今なら引き返せる。まだ、歩道橋の途中なのだから。


 その時、バッグの中でスマートフォンが微かに震えた。  昨夜、自分がコメントを残した、あの『聖者のスープ』の物語。  画面を開くと、作者からの返信はまだなかった。けれど、自分が刻んだ「私は見つけました」という言葉が、青白い光の中で毅然とそこにあった。


「……信号までは、遠すぎるわ」


 美智子は顔を上げた。  ここで引き返せば、またあの暗い寝室で、更年期の火照りと和夫の沈黙に飼い殺される日々に戻るだけだ。期待と不安。そのどちらが重いかなんて、秤にかける時間さえもう私には残されていない。


「さあ、どうする? 美智子」


 彼女は手すりを強く握りしめた。  五感が叫んでいる。喉を焼くような冷たい空気。遠くで鳴るクラクション。そして、自分の心臓が刻む、あの「はいよろこんで」のビート。    トントン、ツーツーツー、トントン。    「このまま、渡ろう」


 美智子は一気に階段を駆け下りた。膝が笑い、呼吸が苦しい。けれど、歩道橋の反対側に降り立ったとき、彼女の視界を遮っていた「うつの霧」が、わずかに晴れたような気がした。


 カフェの窓際で、陽子が手を振っているのが見えた。  彼女の隣には、きっと今日も「正解の人生」という名の盾が置かれているだろう。  けれど今の美智子の懐には、昨夜自分で作った、あの琥珀色のスープの熱がある。


「陽子さん、お待たせ。……今日はね、私の話も聴いてほしいの」


 カフェのドアを開ける。  カランカラン、と乾いた音が、新しい物語の始まりを告げた。    試合は、まだ終わっていない。  歩道橋を渡りきった彼女の背中に、冬至明けの、微かな、けれど確かな陽光が差し込んでいた。


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