第4話 35年間の「良妻賢母」の終焉
第4話
35年間の「良妻賢母」の終焉
台所の引き出しは、静かに閉まる音さえ“きちんと”していた。
美智子は、乾いた布巾で手を拭きながら、その音を聞いていた。カチリ、と木と木が合わさる音。昔はそれが好きだった。整っている音。乱れがない音。家が、生活が、自分の努力で形を保っている証みたいで。
「……整ってるね」
誰に言うでもなく呟くと、換気扇が低く唸った。外は冬の曇り空。薄い灰色が窓ガラスに貼りついて、昼なのに夕方の匂いがする。
シンクの底には、湯気の消えた湯のみがひとつ。
口をつけると、冷たい。緑茶の渋みが舌に残って、喉の奥がきゅっと縮む。
「……冷めるの、早い」
湯のみを置いたとき、スマホが震えた。
美智子は一瞬、身構えた。陽子の名前が浮かんだ瞬間に胸がざわつく感覚が、まだ体に残っている。
けれど表示されたのは、違う通知だった。
“写真”の自動整理。
数年前の今日、という見出し。
「……なに、これ」
指が勝手に画面を滑らせた。
そこに映っていたのは、若い自分だった。黒髪をひとつに結び、体育館の壇上でマイクを握っている。背筋がまっすぐで、笑っているのに、目がぎゅっと力んでいる。
「……卒業式」
その文字が、胸の奥をこすった。
体育館の匂いが、いきなり鼻に蘇る。
ワックスと汗、濡れた上履き、ストーブの灯油。
生徒の頭の匂い。緊張の匂い。
あの頃の自分は、匂いと一緒に“役割”を吸い込んでいた。
――先生。
――担任。
――ちゃんとした大人。
「……あ、痛い」
胸の下あたりが、つんと刺す。
美智子はスマホを伏せて、テーブルに両腕を置いた。木目のざらつきが、皮膚に伝わる。ここにいる。いまの私は、ここにいる。
「……なんで、いまさら」
問いかけても、答えはない。
ふと、隣の棚に目が行った。
薬箱。白い箱。更年期、と書かれたサプリ。整腸剤。目薬。鎮痛剤。
並んでいるのに、どれも“効きそう”に見えない。
「……効いてよ」
声が、少し荒れる。
そしてその荒れた声が、自分の耳に刺さって、慌てて口を閉じた。
「静かに……」
誰に叱っているのか分からない。
昔、教室で自分が言っていた声と、同じだった。
美智子は椅子に座り直した。
背もたれが軽く鳴る。
この椅子も、何年使っただろう。子どもの宿題を見た。夫の愚痴を聞いた。夜更けに家計簿をつけた。全部、この椅子の上だった。
「……全部、ちゃんとしてきたよね」
自分に話しかける。
返事はない。
でも、心の中に古い声が返ってくる。
――ちゃんとしなさい。
――あなたは先生なんだから。
――母親なんだから。
――妻なんだから。
「……妻なんだから」
口に出すと、味が悪い。
古い油の匂いみたいに、喉に絡む。
「妻って、何」
美智子は笑った。
笑ったのに、涙がにじむ。
「飯作って、洗濯して、家を回して、笑って……」
指でテーブルをとん、と叩く。
一回。二回。
止まらない。
何かを数えるみたいに。
「……私、何か貯めてきたはずなのに」
貯金じゃない。
ポイントでもない。
評価でもない。
「……幸せ」
そう言った瞬間、胸が苦しくなった。
幸せ。
その言葉は、いつから重荷になった?
玄関のほうから、ドアが開く音がした。
和夫だ。今日は早い。
「……ただいま」
声は淡々としている。
美智子は反射で言う。
「おかえり」
それが“良妻”の癖。
息をするみたいに出てくる。
和夫はリビングに入ってきて、コートを椅子に掛けもしないでソファに投げた。外の冷気が、ふっと部屋に混じる。乾いた空気。少しだけタバコの残り香。
「……おい、ゴミ」
美智子の心臓が、きゅっと縮んだ。
「ゴミ、出してないだろ」
その言い方は責めるでもなく、ただ確認みたいで。
でも美智子には、責めにしか聞こえない。
「……出せなかった」
「は? なんで」
和夫が眉をひそめた。
美智子は、喉の奥で言葉を探す。ゴミ出しが怖い。玄関が壁。動悸がして、息ができない。
それを言うと、また「大げさ」と言われる。
「……体、しんどくて」
和夫は鼻で笑った。
「またそれ?」
「……また、じゃない」
「いや、最近ずっと言ってるじゃん。しんどい、しんどいって」
“しんどい”が、軽くなる。
言葉が摩耗していく。
美智子は、腹の底が冷えるのを感じた。
火照りはある。汗もある。なのに腹だけが冷える。
まるで、氷水が胃に注がれたみたいに。
「……私さ」
美智子は、声を絞った。
「私、ずっと“ちゃんと”してきたんだよ」
和夫は靴下のまま足を伸ばして、スマホを見始めた。画面の光が、顔の下半分だけを白く照らす。
「だから何」
「……だから何、って」
美智子の声が揺れる。
自分でも驚くほど、脆い。
「教師もやって、子ども育てて、家のこともやって……」
「みんなやってるだろ」
その一言が、胸の骨に当たった。
「……みんな」
美智子は、笑いそうになった。
「みんなって、誰」
「普通の人」
和夫はスマホから目を離さないまま言った。
「普通の人はさ、ゴミくらい出すんだよ」
美智子の中で、何かがぷつん、と切れた。
「普通って、なに」
声が少し大きくなる。
和夫が面倒くさそうに顔を上げた。
「また始まった」
「始まってない。……私の中では、ずっと終わってないだけ」
「は?」
美智子は立ち上がった。膝が少し震える。
でも座っていたら、何も言えなくなる。
言えなくなって、また飲み込んで、また溜めて、また壊れる。
「私、ね」
美智子は胸に手を当てた。そこが熱い。火がある。痛い。
「三十五年、積み立ててきたの」
和夫が眉を寄せる。
「何を?」
「我慢」
その言葉は、口から出た瞬間、部屋の空気を変えた。
味噌汁でもない。洗剤でもない。
生々しい匂いがする。汗と涙と、古い教室のチョークみたいな匂い。
「私、積み立ててきたのは……我慢だけだった」
和夫が呆れたように言う。
「何それ。大げさ」
「大げさじゃない」
美智子は、息を吸う。肺が痛い。
でも、言わないと戻れない気がした。
「怒らないように我慢して、泣かないように我慢して、疲れてても笑うように我慢して、子どもの前では“いいお母さん”でいるように我慢して、学校では“立派な先生”でいるように我慢して……」
言葉が続くほど、涙が出てくる。
頬を伝う温度が、異様に熱い。
「……私、我慢しか貯めてない」
「貯金は?」
和夫の返しが、あまりにも現実的で、美智子は一瞬息を止めた。
「……あるよ。少しは」
「じゃあいいじゃん」
「よくない」
美智子の声が、震える。
「貯金は、減る」
「我慢も、減るはずだったのに」
和夫が鼻を鳴らした。
「意味わかんねー」
「分かんなくていい」
美智子は、そう言ってしまってから、自分でも驚いた。
“分かんなくていい”なんて、教師だった自分は言わなかった。
誰にでも分かるように説明しなさい。相手の理解度を考えなさい。
いつも、そう言っていた。
「……分かんなくていいけど」
美智子は、唇を噛んだ。
「私の話を、聞いて」
和夫はため息をつく。
「今?」
「今」
「俺も疲れてるんだけど」
その言葉に、美智子は笑ってしまった。
乾いた笑い。
喉が痛い。
「私も、疲れてる」
「三十五年分、疲れてる」
和夫が黙った。
黙ったけれど、黙り方が“拒否”だった。
聞いていない。受け取っていない。
スマホの画面に戻ろうとする手の動きが、そう言っていた。
美智子は、ふと、昔の自分を思い出した。
教室で、泣いている子を前にしたとき、
背中をさすって、「大丈夫、話してごらん」と言った自分。
「……私、あの子たちには言えたのに」
口に出した瞬間、胸が詰まった。
「どうして、私には言えないの」
誰に向けた問いか分からない。
和夫に?
自分に?
それとも、もういない“教師の私”に?
和夫が、ぶっきらぼうに言った。
「……もう寝るわ」
立ち上がり、寝室へ向かう。
足音。ドアが閉まる音。
それだけで、部屋の温度が落ちた気がした。
美智子は、立ったまま、しばらく動けなかった。
耳の奥で、血の音がする。
火照りが、また上がってくる。
「……終わった」
ぽつりと呟く。
「良妻賢母……終わった」
声にすると、怖い。
でも、どこかで、ほっとする。
“ちゃんとしなさい”
“頑張りなさい”
“笑いなさい”
“迷惑をかけないで”
その全部が、肩から滑り落ちていく感覚があった。
重いのに、慣れすぎて、重さに気づかなかった鎧。
美智子はキッチンへ戻り、蛇口をひねった。
水が流れる音。冷たい水。指先がきゅっと縮む。
「……冷たい」
その冷たさが、現実だった。
“いま”だった。
美智子は、手を洗いながら、鏡に映る自分を見た。
目の下の影。乾いた唇。少し乱れた髪。
「……先生」
鏡の中の自分に呼びかける。
「……お母さん」
「……奥さん」
肩が小さく震えた。
「……私」
最後の言葉だけが、やけに小さかった。
「私って、誰」
蛇口を閉める。
水滴が、ぽたり、と落ちる。
その音が、妙に大きい。
美智子は、タオルで手を拭いた。
布の感触が、指先に残る。
ちゃんと乾いた。ちゃんと拭けた。
でも、それが誇りにならない。
「……私、もう」
言いかけて、息を吸う。
「……もう、頑張れない」
言った瞬間、涙がまた落ちた。
でも今度は、絶望の涙だけじゃない。
“認めた”涙だった。
頑張れない。
それは失敗じゃない。
限界だ。
そして限界は、嘘じゃない。
美智子は、流しの下を開け、ゴミ袋を見た。
縛られたままの袋。
出せない袋。
「……出せない」
「でも、縛れた」
妙なことが嬉しくて、また笑ってしまう。
「……これが、私の今日」
誰にも褒められない今日。
でも、自分が見捨てなかった今日。
美智子は、コンロの前に立った。
鍋に水を張る音。
まだ、スープを煮る勇気はない。
でも、水を張るだけならできる。
「……水だけでも、いいよね」
そう言って、鍋の底に手を当てた。
冷たい金属。
そこから、何かが始まる気がした。
「……我慢を積み立てるの、もうやめる」
小さく、小さく宣言する。
世界を変える声じゃない。
夫を変える声でもない。
ただ、自分の中の、ひとつの終焉。
良妻賢母の終焉。
その終わりは、拍手もなく、静かで、ひどく寒い。
それでも、冬の土の下みたいに、どこかで熱が残っている。
美智子は鍋の蓋を閉めた。
カチリ、という音がした。
その音は、整っている音じゃなかった。
“これでいい”という、初めての音だった。
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