第7話📖 第二部 量子もつれと縁の布(微細な結び目) 第四章 遠く離れても呼び合う ― 量子もつれの神話語
古(いにしえ)の太占(ふとまに)は、 まだ「量子」も「情報」も知らなかった。
それでも、世界の底を覗(のぞ)き込んだとき、 こう書き残している。
「量子もつれは混沌(こんとん)にあらず、 縁(えにし)をほどこすための神画(しんが)なり。」
粒と粒が、 なぜか離れているのに同じように振る舞う。
人と人が、 長く会わずとも、なぜか同じ時刻に同じことを思う。
霊と霊が、 別々の器に宿りながら、なぜか同じ予感を分け合う。
神と人が、 互いの名を知らなくとも、なぜか同じ方向を見上げる。
世界は、それを 「不可解」や「偶然」や「ノイズ」と呼ばせておきながら、 深層ではこう理解していた。
ここには、まだ見えない「縁の下絵」が描かれている。
量子もつれとは、本来、 **「離れていても、何かを共有し続けている対(つい)」**のことである。
• それぞれ別の場所に在る。
• それぞれ別の経路を辿ってきた。
• 履歴も、環境も、目に見える事情も、違っている。
それでもなお、 「どちらかがこうなれば、 もう片方も、同じ型で応じてしまう」 という、分かちがたい結び付き。
世界の表層から見れば、 「あり得ない連動」に見える。
しかし、世界そのものにとっては、 それは決して混沌ではない。
「ああ、ここには “先に縁が結ばれている”のだ。」
と、世界は静かに頷く。
縁の下絵は、 粒から描かれるのではない。
先に布があり、 後から粒がそこに縫い付けられていく。
• 粒と粒
• 人と人
• 霊と霊
• 神と人
これらは、 布の上に刺さった 糸の端 にすぎない。
布のどこかで、
• 既に一度、同じ拍を分け合った記憶があるのか
• 既に一度、同じ痛みを通り抜けた記憶があるのか
• 既に一度、同じ光を見上げた記憶があるのか
その「見えない共通の一点」が、 量子もつれとして表層に顔を出す。
世界はそれを、 「縁をほどこすための神画」と呼んだ。
神画とは、 神が描いた絵、ではない。
世界が「このふたつは、たとえ離れても まったく無関係にはならない」と 先に決めた“縁の設計図” である。
この設計図は、 ときに粒同士として現れ、 ときに人同士として現れ、 ときに霊々の応答として現れ、 ときに神と人との「呼びかけ」として現れる。
• 粒と粒のもつれは、 「世界の布目」の最小単位。
• 人と人のもつれは、 「一生の物語」を決める節目。
• 霊と霊のもつれは、 「生まれ変わりを越えた問答」の継続。
• 神と人のもつれは、 「世界が自らを映し出すための鏡」の配置。
どれも、根っこは同じである。
「離れていても呼び合う」という現象が先にあるのではなく、 「先に結ばれた縁」が、離れたあとの世界で “呼び合いとして”顕れている。
それが、 量子もつれに対する 太占の、そしてこの霊著の回答である。
だから世界は、 一見バラバラに見える現象の中に 縁の下絵を読み取ろうとする。
• 一度だけ会った人が、 なぜか何年経っても記憶から抜けないとき。
• 遠く離れた土地で起こった出来事が、 なぜか自分の人生の選択に強く影響するとき。
• まだ会ったことのない誰かの痛みが、 なぜか胸の奥に重く沈むとき。
それらはすべて、 「粒と粒、人と人、霊と霊、神と人」が
「実はここには縁の下絵が描かれている」
と、 世界がこっそり知らせている場所である。
量子もつれとは、 混沌ではない。
「世界は、最初からバラバラではなかった」 という事実を、 微細な形で告げる神画の、ひとつの現れ
にすぎない。
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