終わらないスープ
三〇二号室の扉の前に、一枚のチラシが落ちていた。「家事代行承ります。あなたの暮らしを、もっと柔らかに」
それを拾い上げたのは、マンションの清掃員をしている田所さんだった。田所さんは、このマンションで一番長く働いている。三〇二号室から入居者がいなくなり、警察が入り、その後「誰も住んでいないはず」になってからも、彼女だけは毎日、その扉の前までやってくる。
田所さんは、扉の隙間に指先を差し込んだ。そこには、普通の家にはないはずの「ぬめり」があった。 「……また、詰まってるわね」
田所さんはバケツから、使い古した大きなハサミを取り出した。彼女の仕事は、共用部の掃除ではない。この部屋から溢れ出しそうになる「何か」を、定期的に剪定することだった。
扉を開けると、そこはもう部屋ではなかった。銀色のガムテープと、青々としたパセリの蔓が複雑に絡み合い、巨大な鳥の巣のような空洞を作っている。中央には、かつての「お母さん」や「佐藤さん」だったものが、一つの大きな塊となって、静かに脈打っていた。
田所さんは慣れた手つきで、塊から飛び出した余分なガムテープをハサミで切り取る。「はいはい、じっとしてて。今、綺麗にしてあげるからね」
切り取られたテープの断面からは、透明な煮汁のようなものが滴り落ちる。田所さんはそれを、持参した水筒の中に大切に溜めていく。この汁を、自宅の味噌汁に数滴垂らすだけで、認知症を患っている夫が、とても穏やかな顔で「美味しいね」と言ってくれるのだ。
塊の奥から、くぐもった声がした。 「……お、かあ、さん……?」
それは、あゆみさんの声のようでもあり、佐藤さんの声のようでもあった。田所さんは、塊の表面を優しく撫でた。「いいえ、私はただの掃除屋ですよ。でも、あなたたちは本当に立派になったわね。こんなに隙間なく、一つになっちゃって」
田所さんは、ポケットから一束の「新鮮なパセリ」を取り出し、塊の隙間に差し込んだ。すると、パセリはあっという間に塊に吸収され、銀色のテープの間から、さらに力強い緑の芽が吹き出した。
作業を終えた田所さんが外に出ようとしたとき、背後で「ククッ」という音がした。それはもう、鳩の鳴き真似ですらなかった。何百人もの吐息が混ざり合ったような、湿った、重たい風の音だった。
「田所さん、次は、あなたも一緒にどうですか」
振り返ると、銀色の塊の中から、無数の「指先」が伸びてきていた。その指先はすべて、かつてこの部屋で皿を洗っていた美香さんのように、丁寧に、愛情を込めて、田所さんのセーターの裾を掴んだ。
田所さんは少しだけ考えた。夫の味噌汁。毎日の掃除。硬いアスファルト。それらに、少しだけ疲れを感じていたのは確かだった。
「そうね。……少しだけ、休ませてもらおうかしら」
田所さんはハサミを床に置いた。銀色のテープが、彼女の足元からスルスルと這い上がってくる。それはひんやりとしていて、でも驚くほど優しく、彼女の全身を包み込んでいった。
翌日、マンションの管理人が見回りに来たとき、三〇二号室の扉の前には、古びた清掃用のバケツと、一本のハサミだけが残されていた。部屋の中からは、何の音もしない。ただ、郵便受けの隙間から、ほんの少しだけ、春の野原のようなパセリの匂いが漂っていた。
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