《第一章》呪われた騎士の来訪①

 朝一番。

 寝起きに鏡を見て笑顔を作るのが、ネリーの習慣だ。

【おはよう、わたし!】

 ぴかぴかに磨きあげられた小さな壁掛け鏡の中に、もやもやと文字が浮かびだす。「おはよう、わたし!」とつづられた文字はしばらくの間ふわふわと宙に揺らぐと、風に流れて消えていった。

 あとに残るのは、ネリーの部屋の風景だけ。

 部屋の隅に見えるのは、素敵な香りのカモミールを詰めこんだ干し草のベッド。その上には、ネリーが冬の間にちまちまと寝心地が良くなるおまじないをしゆうしたしきと、いつでもぬくぬくほっこりできるおまじないをこめて編んだ羊毛の掛布がかけられている。

 窓辺にあるのは、ネリーの髪色だからと紫水晶アメジストを溶かして木枠にめた手作りのテーブル。昨夜寝る前に読んでいた恋愛小説としおりが無造作に置かれていて、ネリーは栞をはさみ忘れていたのを思い出した。

【いっけない! どこまで読んだのかしら】

 鏡にまた雲のような文字が映る。ネリーはテーブルへと駆け寄った。

 そこでようやく、ネリーの姿が鏡に映る。

 十七になってもすとんとした体型の彼女は、子どもの頃のワンピースを夜着がわりにしていた。そのせいか大胆にふとももが見えてしまうほど裾が短いけれど、一人暮らしのネリーはそんなこと気にしない。

【ええと……ああ、そう、ここだわ! 星空の向こうに飛んでいってしまった王子の心の欠片かけらがようやくひとつ、取り戻せたのよ! なんてロマンティックなのかしら!】

 ほわんほわんとまた文字が、踊るような筆記で宙に浮かび上がる。

 ゆらゆらけぶる、雲のような文字を生み出すのは彼女の首。

 ネリーはいつだって、カメオが揺れるライラックのチョーカーを身につけている。カメオには微笑ほほえむ女性の横顔が彫られているけれど、チョーカーより上に在るべきはずのネリーの頭はない。

 文字通り頭がないネリーの首からは絶えず雲が生まれていて、彼女が言葉をつむぐたび、声のかわりに雲でできた文字が綴られていく。ついつい読みかけの恋愛小説を読みふければ、物語の一文や彼女の心の声が雲の文字となって宙に綴られた。楽しげな文字たちは朝の風を取りこむために開けられていた窓を越えて、ふわふわ流れて消えていく。

 ネリーがそれに気づかず、夢中で本を読んでいたら。

「こらネリー! 本の内容がだだ漏れだ! 楽しみにしているのにやめてくれ!」

【ごめんなさい、ラァラ!】

 窓の外から怒声が響く。

 ネリーは慌てて本を閉じて、窓から声の主を捜した。

 二階建ての小さな家の窓からひょっこりと身を乗り出したネリー。目下の玄関に十歳くらいの赤毛の少女と大きなかつちゆうが一式、並んでいるのを見つけた。

 少女はこちらを見上げて緑色の瞳をり上げている。ラァラだと思うけれど……と、ネリーは首をかしげた。かしげる首がないので、ほんの少し体が傾いただけなのだけれど。

【ラァラ、ちっちゃくなっちゃった?】

「うっさい。こいつが急に家に訪ねて来たもんだから、驚いた馬鹿のせいで魔法薬をひっくり返しちまったんだよ」

【驚いた馬鹿はラァラの使役獣ネズミ?】

「それ以外に誰がいるんだ」

 どうやら今日のラァラはご機嫌ななめらしい。本来のラァラはネリーと親子以上にとしが離れているので怒られると怖いのだけれど、小さいラァラがぷんすこしているというのはとても可愛かわいらしかった。にやける表情がないというのはこういう時に便利だったり。

 これ以上つっついたら、うっかりやぶから蛇を出してしまいそう。ネリーはラァラの隣にいる大きな甲冑のほうにも意識を向けた。

【ラァラ、隣の方は? まさか人形師みたいに甲冑を連れているわけではないわよね?】

 ネリーがラァラと一緒にこちらを見上げている甲冑に興味を示せば、ラァラが「ふん」と鼻を鳴らした。ぶかぶかな白衣の袖から、ぐいっと立てた親指を甲冑に差し向ける。

「あんたの客だよ、ネリー。そのだらしない格好をやめて、さっさと家の鍵を開けな!」

【わかりましたぁっ!】

 ぴゃっと勢いよくネリーの首から雲が吹き出して、ラァラへの返事を綴る。その文字を置いていくように、ネリーは大慌てでクローゼットへと飛びついた。

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