第4話「紙の上だけ、減る②」
五十階の空気は、広いのに狭い。匂いが薄いのに、肺が重い。灯りは点いているのに、光が“使われていない”。
私は一歩だけ、内側へ入った。
布袋から記録石を出し、刻印をなぞる。
跳ねた。
石の中で何かが暴れた瞬間、掌に痺れが走った。皮膚の奥を薄い針で撫でられるみたいな痺れ。逃げ場のないやつ。反射で指が緩み、石が滑りそうになる。
——落とすな。
私は歯を噛み、掌で押さえ込んだ。痺れが濃くなる。濃くなるのに、波形は落ち着かない。
そのとき、遠くで石が擦れる音がした。
ひとつ、ではない。間が詰まっていく。足音の数が増える。
偶然かもしれない。
偶然にしては、タイミングが良すぎる。
私は剣の柄へ右手を置いた。左は、記録石を押さえたまま。普段なら壁を掴む指がない。普段なら体をひねっていなすところが、ひねりきれない。
来た。
影が三つ、灯りの外からにじむ。牙。爪。湿った息。
私は目を逸らさない。逸らしたら、次の“溜め”が見えなくなる。
最初の一体。肩が落ちる。踏み替えが浅い。——来る角度が決まっている。
半歩だけ下がり、刃筋を通す。横ではない。短く、線だけ。喉の奥が裂け、血が石に散る。散った血が、粉に吸われて暗くなる。
二体目が間を詰める。私は左手をかばうように肘を引く。痺れが掌で跳ね、足裏が一瞬遅れる。
遅れたぶんだけ、危ない。
だから、私は跳ばない。跳ぶと着地で左が揺れる。
代わりに、腰だけ切る。目だけで距離を測って、刃を“当てる”。骨に当たる前に止める。切り口が浅くてもいい。止まれば、動きが鈍る。
三体目が回り込む。壁際。
普段なら左で壁を触って角度を変える。今日はできない。だから、足を置く位置を先に決める。
粉の溜まりが薄い場所。欠けた石の縁。そこなら滑りにくい。
置いた瞬間、爪が空を切った。私はその空白へ、横薙ぎで振り切る。刃が通り、頭が落ちる。落ちた頭が石床で鳴る。
息を吐く。吐いた息が、喉に引っかかる。
掌の痺れだけが、まだ生きている。
私は三体の死体から、必要なところだけを剥いだ。爪。牙。腱。脂の塊。
境界以降の素材は少し良い、と聞いている。聞いているだけじゃない。手順がそうなっている。危険を渡った分だけ、数字が動く。
数字。
私はそれを、生活のために拾う。
帰りの階段は、下りよりきつい。
膝が笑いそうになる。笑うな。笑ったら落ちる。落ちたら——日没。
籠の前の端末が光り、腕輪を認証する。更新条件の字面が、そこにある。私は目を合わせない。合わせたら首が重くなる。
地上の空気に戻った頃、財団の連絡員が待っていた。礼儀は正しい。声は平たい。
「ミラー様。記録石を回収します」
私は布袋ごと手渡した。
掌が軽くなる。軽くなったせいで、痺れが余計に目立つ。まだ、残っている気がする。気のせいかもしれない。気のせいならいい。
連絡員は受領控えを差し出した。紙が一枚。紙の角が、指に当たる。
家に着く前に、ギルドの窓口へ寄った。
素材袋は机に置くだけ。やり取りは書かない。書くほどの余裕がない。
代わりに、台帳更新の通知が一枚、渡された。
【境界観測ログ 受領】
【今回減免 金貨1枚】
【残債 金貨1,797枚】
数字が、少しだけ減っている。
少しだけ。けれど確かに。確かだから、次が来る。
私は紙を折り、内ポケットへ押し込んだ。
押し込む指が、まだ少し痺れている。
◇
「おかえり、リリーお姉ちゃん!」
妹の声が、玄関の冷えを割る。
弟が奥から顔を出す。
「……リリアーナ。無事か」
「うん。いつも通り」
いつも通り、という言葉が苦い。
私は笑って、妹の頭を撫でた。撫でた指先の痺れを、撫で方のせいにした。
夜、二人が眠ってから、控えの紙を箱へしまう。高い棚。届かない高さ。
蓋を閉めると、紙の匂いが薄く残った。
減ったのは紙の上の数字だけ。
増えたのは、掌の痺れと、五十階の空気の手触り。
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