第2話 グラウンドの中へ
フェンスの前で、私はしばらく立ち尽くしていた。
見ているだけなのに、胸が苦しくなる。
動いている彼女たちと、自分の間に、見えない境界線が引かれている気がした。
(……入らなきゃ)
そう思うのに、足が一歩も出ない。
そのときだった。
「そこの子、新入生?」
不意に、少し低めで落ち着いた声が飛んできた。
振り返ると、セカンドベース付近から一人の先輩がこちらを見ていた。
緑がかったショートカットを後ろでまとめ、ユニフォームの着こなしはラフなのに、不思議と大人びて見える。
「え、あ……はい」
声が裏返りそうになるのを必死で抑える。
「見学? それとも、入部希望?」
問いかけは穏やかだった。詰めるような圧も、試すような目もない。ただ、真っ直ぐ。
私は一瞬だけ迷って、それから答えた。
「……入部、希望です」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが小さく弾けた。
「そっか」
先輩は小さく笑って、グラブを持ったままこちらへ歩いてくる。
「じゃあ、遠慮しないで入っておいで。日向里の女子野球部は、見るより混ざった方が分かるから」
フェンスの扉が、軋んだ音を立てて開く。
その音が、私にとっての合図だった。
土の感触が、スニーカー越しに伝わる。
思ったより柔らかくて、思ったより温かい。
「名前は?」
「桐生……桐生こよりです」
「そっか。私は2年生の
室戸先輩。
その名前を、心の中でそっと反芻する。
「経験は?」
「……ほとんど、ないです。キャッチボールくらいで」
正直に言うと、少しだけ視線が集まった。
けれど、誰も笑わない。
「最初はみんなそんなもんよ」
室戸先輩はそう言って、私にボールを一つ放ってきた。
「ほら。まずは、投げてみよっか」
慌てて受け取る。
重い。想像していたより、ずっと。
指にかかる縫い目の感触。
心臓が、ドクンと強く鳴る。
(……大丈夫)
深呼吸して、腕を振る。
ぎこちないフォーム。ボールは少しそれて、ワンバウンドになった。
「うん」
それでも、室戸先輩はミットを鳴らして頷いた。
「悪くないよ。怖がってない」
その一言で、胸がじんと熱くなる。
グラウンドの中で、私はまだ何者でもない。
下手で、未完成で、たぶん足手まとい。
それでも。
この土の上なら、嘘をつかなくていい。
輝けなくても、転んでも、全部が本物だ。
ボールを握り直し、もう一度腕を振る。
──日向里高校女子野球部の一員になるための、最初の一球だった。
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