第3話
メリクは焚かれた火の中で小さく爆ぜる枝の音を聞いていたが、
遠くから別の、枝を踏み分ける音が近づいて来た。
「どうですか? 大丈夫そうですか?」
「うん。なんとかな。瓶詰して封印したから、これ以上魔力は逃げんはず。
研究材料としては十分使えるよ。
しかし一日で【虹の瞳】と【闇の
俺が【天界セフィラ】に来てからどのくらいの時間が過ぎてんのかもはや分からんが少なくとも把握しているここ三十年、闇の竜鱗を発見したことがない!
なんだ今日は奇跡か⁉ 奇跡の日か⁉」
子供みたいに大はしゃぎしているラムセスの様子に、メリクは笑ってしまう。
本当に魔術に関して嬉しいことがあると子供みたいに喜ぶ人なんだなと思った。
あまり覚えてはいないけれど、生前学んでいた魔術学院にも、こういうタイプの魔術師はいなかったはずだ。
「【闇の竜鱗】は、闇の魔力を強く保有している。そもそも闇の精霊がただでさえ一カ所に集めるのが難しい。
他の属性に触れると、変異させる特徴があるから安定した結界の中に封じ込めるのは極めて難しいし、闇の精霊同士も殺し合うから結界の中に封じ込めても刹那的にしか存在できない。
でもこの結晶はいわば、魔石に近い完璧な状態だ。
ここには何の理屈も存在しない。
それこそ天の意志が生み出した自然の美だ。
花と同じだよ」
ラムセスはやって来ると、貴重だというその結晶をメリクの手に持たせてくれた。
確かに感じたことのない、強い魔力の気配だ。
波動のように感じる。
「強い魔力だろ。
だから地上に落ちてもすぐに見つかってしまう。
この【天界セフィラ】なら、巡回部隊が見つけるかもしれんし、野生の魔物が見つけて体内に取り込むこともある」
「……そして変異するわけですね」
「闇の魔力は他を変化させる。不安定な本質だから、不安定な変化をもたらす。
闇の魔術はまだまだ解明が進んでいない領域が遥かに多い。
わくわくする」
キュウキュウと抗議の鳴き声が籠の中からした。
「出せって? 絶対ヤダ。お前よく俺の貴重な研究材料暇つぶしにヒマワリの種感覚で食べるだろ。
これは貴重の度合いが違う。
お前に食われたらマジギレするからな俺は」
「お腹が空いてるんじゃないですか。よくそういう時に、そういう鳴き声を出してた気がします」
「なら余計出してやらん」
赤蝙蝠に冷たくそう言った後、ラムセスは手を伸ばして、メリクの栗色の髪をわしわしと撫でて来た。
「それはメリクに預けておこう。見つけてくれたの、お前だからな!」
一日中【天界セフィラ】結界境の森林を歩き回ったわけだが、別に眠気は訪れない。
一応、休憩のつもりで火を焚いて休んでいるが、実体化していてもやはり、どこか精神体なのだろうと思う。
猛烈な疲れがあるわけではないのだ。
「メリクは【虹の瞳】は見たことあるか? 竜鱗の方は地上にはない代物だけど、辛うじて【虹の瞳】はあるはずだが」
「ああ……貴重なものでしたが、確か【知恵の塔】で保管されているものを見たことがあります」
「【知恵の塔】……宮廷魔術師団の本拠地か」
「はい」
ラムセスは寝そべったようだ。
メリクはその気配に小さく笑むと、首から下げていたペンダントの中に、闇の竜鱗をしまい蓋を閉じた。
風の音。
森の木々が揺れる。
メリクはラムセスは寝ているのかもしれないと思っていたが、実際彼は寝そべって片腕で頭を支え、どこか遠くを見ているメリクの横顔を眺めていた。
何故、彼は視力を失ったのだろう。
そのことが生前の【
視力ではなく、
記憶の方を奪えばいいではないかと。
ラムセスは思うのだ。
そんなことをしなくともメリクには忘れている、様々なことがある。
王子リュティスとの記憶がメリクの魂を死へ導くほど傷つけるのなら、その原因となる王子リュティスとの記憶を消せばいい。
(いや……)
リュティスは魔具の所有者だ。
あれは力だけ取り上げられれば【天界セフィラ】の敵にも通用する。
あちらが召喚されるのは、何となくきな臭い天界の様相を見ていれば、理解できる気はする。
――だったらメリクは、召喚するべきではなかったのではないか。
順を追って考えてみるとそう行きついた答えに、ラムセスの思考の向こうに静かな横顔で座る彼は、そう言えば小さく笑って、「そうですね」とか一言呟いて、頷いて喜んで消えそうな気がした。
手を触れられたことに、しばらくメリクは気づかなかった。
ラムセスがメリクの手を握った数十秒経ったあたりでこちらを見た。
「すみません。寝ていらしたのかと。……前から思っていましたけど貴方の気配……」
唇が重なる。
その行為の意味が何なのか、言葉に出来ないほどそっと触れる、掠めるほどの感触だ。
「キスしてもいいか?」
すぐ正面で声が聞こえた。鼻先に覗き込んでる感じだ。
「……そういうのは普通する前に聞くのでは?」
「してから思い出した」
ラムセスが笑う。
「断わってもいいですか?」
「嫌だ。俺は他人に頼み事することほとんどない。
そのたまにした頼み事を断られるのは大嫌いだ」
「はあ……そうですか」
変わった人だなあと率直にメリクは思ったが、口には出さなかった。
ラムセスはずっと笑っている。
「俺の気配がなんだって?」
「あ……いえ……。何でもありません」
「なんだよ……気になるだろ?」
「……。……気づかれにくいとよく言われませんか、と言おうとしたんですが、貴方の気配は追いやすいはずでしたね。自分で追って歩いてたの思い出して」
ラムセスは沸かしていた湯を椀に入れて、メリクに渡す。
こういうのは癖のようなものだ。
ラムセスもメリクもあまり物を食べないでいられる。同じように水も必要な体ではない。
しかし飲もうという気になることがある。
そういう時は飲まないと、魂の不満になって良くないというわけだ。
本当に奇妙な状態の体になった。
「ありがとうございます」
「メリクは話してるとたまに妙に押し黙ることがあるが……それはなんだ、あれなのか? それも例の【魔眼の王子】と長い間緊張感ある関係を保って来た、弊害なのか?」
弊害、という表現に笑ってしまった。
「弊害かどうかは分かりませんが……」
「よくやってる。癖なんだな」
パチパチという、この音。
一人で旅をしていた時よく眺めた。
最初の頃は炎の輝きにどうしても過去を思い出して、
そこから遠ざかり、二度と触れることが出来なくなった自分を思い、
喪失感に、寂しくて泣いたこともあった。
今は炎は見えない。
いずれ、音も聞こえなくなるだろう。
その事実を見通して、
……今は、聞いておこうとメリクは思った。
「どんな奴だったんだ?」
「聞かれるの嫌がるの知っているのに聞いてくるんですね」
「聞かんとお前とあいつの関係がよく分からんだろ」
「分からなくていいと思うんですが」
「よし分かった! こうしよう! お前も俺も、我慢はしない。
我慢は精神体に一番良くないって言ってたぞ。誰だったかは忘れたが。
お前は話したくないことには一切答えないでいい。
俺もお前にキスしたくなったら一切我慢しないでしていい」
「おかしい理論だと思うんですがね……」
メリクは胡坐を崩した。
もう怒る気もない。苦笑してしまう。
「話しますよ。否定は疲れる……そのかわり、約束してください。
俺のことがあの人の耳に入れば、俺は死にます」
「本気だなメリク。
優れた魔術師とは相手が本気か本気でないかくらい、見抜けなきゃいかん。
俺は本気と見た。いいだろう。それは約束する」
立てた片膝に頬杖をついて、メリクは目を閉じたまましばらく、過去を探るような表情を見せて、口を開いた。
「……多分、多くの秘密を抱えた……人だったと思います。
サンゴール王国の後世の歴史書があの人をどう書いたか、俺は知らないし、興味もないけど、公に記録されているもの以外に、……行動力のある人でした」
多くの秘密の抱えた人間が、秘密を抱えたまま話すと、言葉はこれほど難解になるものなのかとラムセスは思う。
古の魔術書同様メリクの言葉には、解釈をしてやらないと真意が分からない、そういうものがある。
残念ながらラムセスは余計、惹かれた。
「貴方はサンゴールの【竜の墓場】をご存知ですか?」
「ご存じも何も、王家の墓の一つだろ。
あそこも俺の時代は相当不死者の棲み処になっていて、特に重点的に封印を張り直したよ。俺の時代では近づけない場所だったが」
「そうですか……。では貴方のそのことが【竜の墓場】というあの聖殿の、その後の世での役目を変えたのかもしれません。
俺の時代あそこは真に、王家の者が入って神儀を行う聖殿になっていました。
朧げにしか覚えていませんが、非常に強力な結界に包まれた場所です」
「随分変わったな」
「はい。第二王子という人は、まず母妃が彼の竜紋を非常に嫌っていたようです。
……いや、サンゴール名門の令嬢として王宮に嫁した、誇り高い女性だったのですが、メルドラン王――あの人の父上と結婚なさった時に、竜の業に触れ、その苛烈さを愛せず、忌み嫌うようになったとか。
そして、あの人が生まれて【魔眼】が瞳に顕われたのを見て、完全に心を閉ざされて、遠ざけられたようです。
王は王妃を愛したそうなので、彼も、彼女が嫌った第二王子を可愛がらなかったとか。
彼には、そういう育った環境が人格形成に多大な影響を及ぼしている所がある」
「【魔眼】は【
「ええ。――その気になれば瞬き一つで人を殺せる術師です」
「つまり、情けがあったわけだ」
メリクはラムセスを見た。
「そんなに驚くことないだろ……」
ラムセスは苦笑する。
「お前自身が今言ったんだぞ。瞬き一つで人を殺せると。
親に愛されなかったことで性格がねじ曲がって、自分以外を全部憎むような奴になってたら、それこそ瞬き一つで何人も死んでるはずだ。
そうか。つまり、お前があいつの弟子で、何かにつけ横っ面を叩かれながらも生きのびて来たことが、そのこと自体がお前はあいつが自分に見せた情けだということが分かっているのか。
生かされていること、そのものが」
ふと見たメリクの横顔が変わった。
いつもは心がそこにないような、遠くをぼんやり見遣るような雰囲気でいるが、
その時見せた横顔は凛としていて、怒りを内にしっかりと抱え込んだような強さを感じた。
多分これがサンゴール時代のメリクなのだ。
その【魔眼の王子】と過ごしていた時の彼の横顔なのだった。
「怒ったな、メリク。俺の指摘が気に障ったか?」
じっと火の方を見ていたメリクは、優しい声を響かせて来たラムセスに、その表情を維持しようとして、笑い……思い出したような顔でやめて苦笑した。
「……いえ。話したのは俺ですから。何を俺の言葉から貴方が読み取るかは、俺には決められない」
「うんそうだ。そういうことなんだ」
「だから話すことは、危険なんですよ」
「……俺が感じるところによると、お前はよく、言葉を止める。
それが正しいか正しくないかを、非常に気にしているようだ。
この世にはとかく、おしゃべり好きの魔術師が多い。
言っとくが俺のことじゃあないぞ。
俺は魔術に関してはちゃんと寡黙だ。
魔術をとにかく使いたがるやつがいるということさ。
世の中には、そういう奴も『優秀な魔術師』と言われる中に紛れてることが多い。
最初は単なる優れた魔術師の素質だと思って気にしていなかったが、
お前のその言葉を迷わせる癖は【魔眼の王子】と長い間過ごしたからなのか」
メリクはもう一度、頬杖をついた。
「……どうでしょうか。自分ではあんまり気づきませんでしたが……言われてみるとそうなのかもしれませんね。
俺が彼に対して出来たことは、出来る限り彼の前に出た時は静かにいて、出来る限り魔具の所有者である彼の機嫌を損ねないように努力することくらいでしたから」
最初は、そんなことも知らなくて。
「最初は知らなくて、分からなくて、【魔眼】のことも、俺には大したことはないように思えた。
ただの、綺麗な二つの瞳に過ぎない。
自分の中の魔力を捉え、自分が魔術師であると自覚した時から、全ての人は魔術が使える。
魔術が使えれば、例え赤子でも人を殺せるんです。
だったらあの人だって、普通の人だと同じだと……そんな風に思っていました。
それでかもしれませんね……」
「なにがだ?」
「あの人に俺は憎まれていたんです。
何故かなと思うことはやはりありました。人間嫌いな人ですから、俺もその一員なんだろうと思うことはありましたけど、あの人の俺を憎む感覚はすこし……」
メリクはそこまで言って気づき、笑ってしまった。
「ん?」
「いえ……少し、特別変わっているように思えましたから」
そんなことはないはずだと、生前逃げ続けていた答えを、あっさりこんな縁もゆかりもない男に話してしまった。
メリクは他の人間同様、リュティスが自分を嫌ったり遠ざけてくれるなら構わなかったのだ。
メリクが気付きたくなかったのは、自分がリュティスにとって特別だったことである。
特別強く、憎まれていたという事実が問題なのだ。
「少し特別変わっているように思うって、変な表現じゃないか?」
メリクは笑う。
「変ですね。たしかに……」
「お前の養母からサンゴール時代のお前の話を少し聞いた時、あいつと師弟関係にあったことも聞いたよ。多分表面的なことだろうけどな。
お前の養母はこう言ってたな。
お前たち二人に魔術の師弟なのかと聞いたら、
お前は必ず肯定するが、
あいつは否定するだろうって」
「……まあそうなるでしょうね。
でも、他人からどう思われるなんてことは、俺は全く興味がありませんよ。
アミア様には魔力がない。
魔術の師弟というものがどういうものか、あの人に理解できるはずがない。
俺は、魔術という概念そのものをリュティス王子に教わったんです。それは事実です。
あの人に出会わなかったら俺は魔術を知らなかっただろうし魔術師になろうとも思わなかった。
いや……魔力という世界に触れることも、出来なかったかも」
ラムセスは頬杖をついて、話し始めたメリクを優しい表情で見遣った。
やはりこの青年は、魔術に対して抜群の感性を見せる。
極めて鋭いものだ。
彼は今「魔術」と「魔力」を別のものとして捉えていることを示した。
魔術と魔力は同じ領域にあるものだと、誤解して捉えているものは多い。
だがそれは正しくない。
違う領域にある、同じ場所に導くべきもの、なのだ。
魔術師は、魔術と魔力を所有するのではなく、
魔術と魔力どちらとも、向き合わなければならない。
例えば魔力は己にあるものと思って慢心すれば、魔術をいかに極めても、優れた感性を持ち合わせた魔術師には劣るものになる。
魔術を識ることと、魔力を行使することは、別だ。
自分の過去には大概無口で朧げになるメリクだが、魔術観を話している時の彼の話を聞くのは好きだ、とラムセスは思った。
揺るぎない、彼がどういう魔術観を学び生きて来たが伝わって来る。
魔術を話している時のメリクは、最高だった。
「例え周囲に希薄に見えても、あの人自身が明確に俺との師弟関係を否定しても、
そんなことは関係ないんです。どうでもいいことだ。
俺がそう感じて思うことに、意味がある」
「……俺が見た限り、お前は優れた魔術師の素質がある。感性ってやつだ」
メリクがラムセスを見た。
「信じられないか?」
「いえ……賢者ラムセスにそんな風に言っていただけるなんて思ってなかったので」
がく、と頬杖からずれる。
「賢者を茶化して遊ぶなよ」
メリクは笑った。
「茶化したわけではないですが……」
「わかった。お前のその、自分を低く見積もる癖は、師匠に常に否定されて生きて来たからだな」
「そうかもしれないですね」
もう、否定はしなかった。笑いながらメリクは答える。
「優れた感性というのは、お前が生まれながらに持っていたものと、育った環境で培われて行くもの両方ある。お前の優れた感性の一つは、魔力垂れ流しのその【魔眼の王子】の側で魔術を学んだことで培われた。
自主性だとか忍耐だとか、緊張感とかだ。
危険性や、業も知っただろう。
でもその前にもっと根本的な感性があったから、お前はあの王子に惹かれたんだろうな。
普通の人間は【魔眼の王子】と対面させられた時には恐怖を覚えるだけだ。
でもお前は、別のものを感じたはず」
賢者の言葉に導かれるように、メリクは封じ込めていた遥か遠い日の記憶が蘇った。
美しい聖堂の、ガラスから木漏れ日のように光が幾筋も差し込む。
その石の道を、こちらへ向かって歩いて来るリュティスの姿。
「『魔相の出ている子供だな』」
「え?」
「……。あのひとが、言ったんです。
俺に初めて会った時、一番最初にそう言った。
リングレーの田舎の、魔術なんて世界に存在しない、そういう場所からサンゴール王宮に突然保護されて連れて来られた、まだ何の学びも始めていないような子供を見て、
俺の顔を見て、
――あの人が、そう言ったんです!」
握り締めた地面の土を、目前の火に向かって投げつけた。
それは忌々しい幻影を追い払うような仕草だった。
はぁ、っ……と一瞬の激情を飲み込んで、メリクは顔を伏せた。
「……もうやめましょう。今更こんなことを思い出したって何にもならない」
辺りは静かになった。
火は死んではいなかった。
……また静かに蘇り、パチパチと音が響いた。
「お前がどうして、自分を認めも労りもしない【魔眼の王子】が好きなのか、分かったよ」
びく、とメリクの体が震えた。
「――おまえを見つけてくれた人間だったからなんだな。滅びの中から」
目を見開く。
そうすると、呆気なく涙が零れた。
愛の業は、きっと魔術の業よりもずっと深い。
あの時の感謝を……。
メリクは目を強く瞑った。
見つけ出してくれた感謝だけを、それだけはリュティスに伝えて、理解してもらえば良かった。
あとの人生は、どうでも良かったのだ。
リュティスにとって、サンゴールにとって、自分が目障りなら。
サンゴールから出て行って二度とそこに踏み入れない覚悟もあった。
感謝と別れだけ伝えて、それだけをリュティスが理解してくれたら。
そうしたかったと心の底から思った。
いつかそうなって欲しいと思って、サンゴール王国に留まった。
そうして始まったメリクの魔術の道は彼を苦しめ、世界を益々複雑にしたけれど、
後悔はしていない。
国をたった一人で出た後も、孤独を和らげてくれたのは魔術だったし、
命を救ってくれたのも魔術だった。
――リュティスが死んだとき。
この身が砕かれるほどの痛みを感じて、
知らずのうちにも感じられて、自分とあの人の魔術の縁は死んでいなかったのだと思えた。
あの時メリクの心には、何の希望も光もなかった。
滅びゆくエデン大陸で、彷徨って死んで行くだけだっただろう。
リュティスが見つけ出してくれた魔の魂が、死んでいた器に命を吹き込んで、災いの地アフレイムに自分を導いてくれた。
例え死んでもそれは幸せな時だったと、メリクは紛れもなくそう思えたのだ。
リュティスはそのことを知らない。
彼はメリクを知らない。
死んだ地を、
死んだ意味も、
【お前の、他人に寄生してまでどこまでも生きようとする醜悪な魂は
結局死んでもなお、変わらなかったわけか。
サダルメリク。
貴様のその面を見たこの瞬間、俺は地獄に蘇ったことを実感している】
リュティスはいつもメリクに生きる意志や、希望や、光を与えてくれたのに、
自分はいつもリュティスに絶望を与える。
だから自分は心底【闇の術師】だとメリクは思うのだ。
例え自分が喜ばしくても、いいことだと思っても、
何かをしようとすれば悪しき因縁を生み出す。
蘇ったリュティスは絶望しているが、彼の側には光の魂であるアミアカルバとミルグレンが戻った。
きっと、傷は癒えて行く。
完全に国を失った痛みは消えないかもしれないが、
それでもサンゴール王国で最も優れた魔術師と謳われたその知恵と、意志と、人々の知らない所で、血を浴びても戦っていた強さで、生きて行けるようになってほしいと、メリクはそう思うのだ。
「消えるなよ。サダルメリク」
ラムセスがメリクを強く抱き寄せた。
「消えるな。自分を消すな。お前が自分を見限れば、魂は消滅する」
それを望んでいるのだ。
必死に、そうありたいと。
【闇の術師】が静かに消滅することはこんなにも難しく大変なことなのかと辟易しながら。
「――俺はこう思う。
お前のその、失われた瞳のことだ。
【魔眼の王子】は古の魔具を所有する。
使いようによってはあれは異界の者にも死傷を負わせられるから【ウリエル】が武器として召喚した理由は分かる。
だがそうだとしたら、あいつとお前の間に本当の悪縁があるならば、ウリエルが召喚するのはあいつだけでいい。
お前が何かあいつに悪しき影響を及ぼすものならば、わざわざお前を召喚する理由はない。
お前の現在の苦悩も希望も、全て過去から由来するものなら、
お前はこの『今』が第一の生の、揺るがない直線上にあるように思えるかもしれないが、
あいつの存在が、今、お前の存在を否定してるはずなんだ。
だが、お前はここにいる。
お前はあの【魔眼の王子】とは全く関係のない、何かを成すために呼び覚まされた。
そうは思えないか?
お前にも、何かウリエルがここにあるべきだと思う何か特別な輝きがある。
だがお前にとって【魔眼の王子】に見いだされたその双眸は、枷だ。
いくら無関係だと言い聞かせた所で、魔眼で見据えられればお前はその一撃で、あいつの運命の渦に溺れて行くだろう。
また第一の生の繰り返しになる。
それじゃあ意味がない。
だから【ウリエル】はお前の両眼を封じたんだ。
魔眼の直視を受けなければ、お前は辛うじて自分の形を保てる。
……けどな。
俺はそんな回りくどいことをするくらいなら、お前の記憶を奪えばいいと思うんだよ。
時と共に記憶なんぞ劣化する。それは自然の摂理だ。
魔術を行使する時も、流れというものがある。
両目を封じる力を使うくらいなら、本来放っておいても消えていく方に流れている記憶を封じる方が遥かに労力を必要としないだろ。
だが【ウリエル】にはそれが出来なかったんだ」
メリクはそっと瞳を開いた。
暗闇は変わることはない。
「…………何故ですか?」
「さあな。お前が強く、それを拒否したのかもしれん。
お前にとってどちらが手放すのに難しいか、そういうことになる。
【四大天使】とか名乗ってるあの魔術師どもは、俺たちが思うよりずっと、色々なことが出来ない存在じゃないかと俺は思うことがある。
不完全な状態にあるウリエルは尚更だろ。
あいつは完全なる召喚を望んだが、お前はそれを拒んだ。
だからその目のことは【四大天使】との契約には関わってないように思う。
つまりお前が望めばこの瞬間だって、その瞳は世界を映せるんだ」
そんなことは望まない。
二度とリュティスのあの瞳を見たいとも、少しも思わない。
あの、魂の底まで軽蔑されきったような目で、見られるなんて二度とごめんだ。
例え、一瞬であろうとも。
憎むようにそう願った時、
メリクは自分がリュティスの呪縛から心底解き放たれたがっていることに気付いた。
死を望む理由も、そもそもそこに繋がっている。
冷たいあの人の直視を見たくないという、子供のような理由で自分は目を閉じている。
視力が失われていることに大きな意味があるなど、考えたこともなった。
ウリエルの影響下から長く離れれば、自然と魂は消滅すると誰かが言っていた。
何かがおかしい。
それは確かだ。
自分に興味を失っていたメリクは気づきもしてなかった、そのことにその時初めて気づいた。
「…………【次元の狭間】…………」
「え?」
白い雪に埋もれて、胸に穴が開いた身体で、メリクは霧の空を見ていた。
あの一帯は、すでに異界の影響が及ぶ闇の領域だったのだ。
メリクの魂は死ぬ直前【次元の狭間】のすぐそばにいた。
「【次元の狭間】のすぐ側って……おまえ、一体どこで死んだんだ?」
メリクの身体を抱きしめていたラムセスは片腕を放して、彼の顔を見下ろす。
「確か北嶺アフレイムのあたりに【次元の狭間】に出現したと言っていたが……。
ああ……。お前のあの弟子が扉を閉じたと言っていたから、お前も側にいたのか」
「いえ……俺は……。
俺は生前エドアルトとミルグレンと三人旅はしていたんですが、
それはまだ、無事なエデン大陸の方を旅していた時のことで。
最後の数カ月は、一人でいました」
「まさか【次元の狭間】を閉じようとしたのか?」
さすがに驚いたようにラムセスは言った。
【次元の狭間】が開いた理由は、定かではない。
だがあれも魔法陣のような一種で、世界を隔てる結界の扉だ。
理論上は結界ならば、魔術師には張り直せる。
だが異界の世界を隔てるほどの結界だ。
それを封じ込めるのに、どれだけ莫大な魔力を必要とするのかなど、ラムセスでさえ想像がつかない。
魔力などという言葉では片付かないかもしれない。
魔力を有する、魔術の命を何人費やしてもどうかという領域だ。
後の世界ではエドアルトが「閉じた」とただ表現するが、それは厳密には正しくない。
エドアルトに、そんな力はない。
閉じたのは異界の神格に位置する【ウリエル】のはずだ。
【天界セフィラ】という異界を見い出した地上の魔術師。
「ウリエル……」
ラムセスは何かが、引っ掛かった。
悪い予感にも似た、直感だった。
エドアルトは【次元の狭間】に残り、それを媒介としてウリエルが本来干渉出来ないはずの魔術を行使して【次元の狭間】を閉じた。
だが【四大天使】には【次元の狭間】を閉じるような力が本当にあるのだろうか?
地上の魔術師とは――それほど、世界の安定を託すに信頼出来る相手だっただろうか?
「セス」
ラムセスは思索からハッと醒めた。
瞳が見えなくても、メリクが自分の感じた悪い予感を、側で鋭く感じ取っていることが分かった。
彼はふっ、と笑う。
もう一度抱きしめて、安心させるようにメリクの頭を優しく撫でてやった。
「……なんでお前の師匠はお前のこと、一度も撫でて誉めてやらなかったんだろうな」
メリクは胸が震えた。
それは多分……。
『お前のような魂の下賤が……』
「まったく意味分からんな」
ラムセスは笑いを含んだ優しい声を響かせた。
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