【完結まで毎日更新】咎人とアズライト〜国を捨てた魔法士は、記憶を失う転生者と旅をする〜

k-on

第一章 咎人と転生者

プロローグ

 泥の味がした。


 口の中だけではない。


鼻腔も、地面に張り付いた頬も、全身が腐葉土と湿気に包まれている。


 指一本、動かない。


(――餓死、か)


 薄れゆく意識の底で、男――カインは自嘲した。


 笑えない冗談だ。


かつて「亡国ヴァニタス」で最強の称号をほしいままにした騎士の最期が、これだ。


 強力な呪いを受けたわけでも、軍勢に囲まれたわけでもない。


 ただ、食うのを忘れた。それだけだ。


 この「レーテ大陸」の辺境の森に漂う、奇妙なノイズを追うことに没頭しすぎた。


 一度気になりだすと、正体を暴くまで止まれない悪癖。その代償がこのザマである。


 最後に水を飲んだのは三日前か、四日前か。記憶も曖昧だ。白かったはずのシャツは泥にまみれ、今の彼はただの浮浪者にしか見えないだろう。


(……まあ、いい)


 瞼が鉛のように重い。十五年前に国を捨てたあの日から、この命は消化試合のようなものだ。


名も無き森の土になるのも、悪くはない。


 その時、カサッ、と枯葉を踏む音がした。

 獣か、魔物か。どちらにせよ、今の彼には追い払う気力すらない。


 足音は、カインの頭のすぐ側で止まった。


「……あの」


 聞こえてきたのは、鈴を転がしたような、けれどひどく怯えた声だった。


 カインは僅かに瞼を持ち上げた。

 視界が霞む。逆光の中に、細いシルエットが揺れている。


 栗色の長い髪。質素なスカートの裾。そこから漂うのは、土の匂いと、果実のような甘い香り。


 ――いや、違う。


 肌が粟立つような、異質な感覚。


 カインがこの一週間、不眠不休で追い続けていた「解析不能なノイズ」。それが今、目の前に立っている。


(こいつ、か……)


 知的好奇心が鎌首をもたげるより早く、限界を迎えた脳が活動を停止させた。


 意識の糸が、ぷつりと切れる。

 カインは深い泥の底へと沈んでいった。


          ◇


 熱を感じた。

 干上がった喉を、温かい液体が滑り落ちていく。胃の腑に落ちた熱が、冷え切った内臓をじわりと焼く。生きろ、と身体が悲鳴を上げているのがわかった。


「……ん」


 呻き声を漏らすと、口元に何かが当てられた。ゴツゴツとした、粗末な木の椀だ。


「目が覚めましたか? ……無理しないで。ゆっくり飲んでください」


 先ほどの声だ。

 言われるがままに流し込む。薄い塩味と香草の香り。ただの湯に近いスープだが、今の五臓六腑には極上の酒よりも染みた。


 最後の一滴まで飲み干し、カインは大きく息を吐いた。


 視界が焦点を結ぶ。

 目の前にいたのは、一人の娘だった。


 歳は二十前だろうか。緩くウェーブのかかった栗色の髪に、大きな琥珀色の瞳。村娘のような格好だが、その表情は捨てられた仔犬のように心細げで、倒れていた大男――カインの顔色を恐る恐る窺っている。


「……助かった」


 上体を起こし、短く礼を告げる。声は枯れ木のように掠れていた。


 黒髪を乱雑にかき上げ、カインは娘を見た。娘はビクリと肩を跳ねさせ、じりじりと後ずさる。

 無理もない。


 泥だらけのシャツを着た、目つきの悪い大男だ。警戒するなと言う方が無理がある。


「い、いいえ……。あんなところで倒れていたので、その……」


 娘は焚き火の番をしながら、消え入りそうな声で言った。


 手際よく薬草を煎じた跡がある。巨体のカインを運ぶことはできず、その場で火をおこし、介抱したのだろう。


 カインは目を細めた。


 ――やはり、おかしい。


 彼女が動くたび、周囲の空気が微かに軋むような感覚がある。


 カインの目は、この世界に存在するあらゆる魔法式、マナの配列を瞬時に視認し、解析できる。


だが、彼女から発せられている「それ」は、カインの持つ膨大な知識のどれにも該当しなかった。


 マナではない。


 精霊の加護でもない。


 もっと根源的で、異質なエネルギーの奔流。

 まるで、精緻に描かれた風景画の上に、異なる画材で描き足された異物のような違和感だ。


「お前、名は」


 カインが問うと、娘は視線を泳がせ、おずおずと答えた。


「コレット、です。……貴方は?」


「カインだ」


 カインは立ち上がった。

 まだ足元は覚束ないが、剣を握る程度なら問題ない。


 コレットと名乗った娘は、カインが立ち上がったことに安堵したようだったが、すぐにハッとして表情を曇らせた。


 慌てて荷物をまとめ始める。何かから逃げるような手つきだ。


「そうですか。カインさん。もう大丈夫そうですね。では、私はこれで……」


「待て」


 背を向けたコレットを呼び止める。コレットは強張った顔で足を止めた。


「な、何か……?」


「借りは返していない」


「借り?」


「スープだ。一食と、施しの礼。俺はタダ飯を食う主義じゃない」


 カインの言葉に、コレットはきょとんとした後、困ったように眉を下げた。


「お気になさらず……。ただのお節介ですから。それに、私と一緒にいない方がいいんです」


 コレットは森の奥――村がある方角へと視線を向けた。その琥珀色の瞳には、明確な怯えが滲んでいた。


 彼女から発せられる異質な波長。それが、ただならぬ何かを引き寄せている気配がする。森の空気が、ピリピリと肌を刺すように変質し始めていた。


「どういう意味だ」


「……私と一緒にいると、悪いことが起きるんです。だから……お、お元気で……!」


 コレットは頭を下げ、足早に去っていった。

 その背中は小さく、今にも森の闇に飲み込まれてしまいそうに頼りなかった。


 カインはその背中を見送る。

 解析不能な波長。


 そして、周囲に漂い始めた濃密な殺気。魔獣か、それとももっと厄介な何かか。カインが常時展開している結界が、警告音を上げている。


 ――面倒事だ。


 長年の勘がそう告げている。関わればろくなことにならない。


 カインは事なかれ主義だ。このまま反対方向へ歩き出せば、平和な旅が続くだろう。


 だが。

 胃の腑に残る温かさが、足を止めさせた。

 一食の恩。


 それは、全てを捨てて生きているカインにとって、数少ない「人間としての鎖」だった。


「……まったく」


 カインは溜息を一つ吐き、泥を払った。

 そして、コレットが消えた森の獣道へと、ゆっくりと歩き出した。

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