過去に転生したら、織田信長に拾われて秘書になりました ――時を馳せる秘書・信長公記 改――
@curren-chan
第1話 未来より来たる秘書
◆未来より来たる秘書◆
その夜、結城晴臣は、いつもより少しだけ遅くまでオフィスに残っていた。
理由は単純だった。
社長が「明日の朝一で使う」と言い放った資料が、まだ完成していなかったからだ。内容自体は難しくない。数字を整え、言い回しを柔らかくし、責任の所在を曖昧にする。
いつもの仕事。いつもの後始末。フロアには、彼以外の気配はない。消灯された島列の間で、デスクライトだけが白く光っている。キーボードを叩く音と、空調の低い唸りだけが、夜のオフィスを満たしていた。
――帰りたいな。
ふと、そんな感情が浮かび、すぐに打ち消す。秘書にとって、「帰りたい」は仕事の理由にはならない。資料を保存し、メールに添付する。
送信前、ほんの一瞬だけ、カーソルが止まった。
(……ん?)
画面の隅が、微かに滲んだ気がした。目の疲れだろう、と瞬きをする。だが、滲みは消えず、ゆっくりと広がっていく。
耳鳴りがした。高い音ではない。低く、重く、頭の奥で反響するような音。
「……まずいな」
椅子から立ち上がろうとして、足に力が入らないことに気づく。
床が傾いた。世界が、ほんの数ミリずつずれていく。蛍光灯が、異様に明るく感じられた。次の瞬間、その光が――裂けた。
眩しさと同時に、身体が宙に浮く感覚。重力が消え、上下の区別がなくなる。
叫ぼうとしたが、声は出なかった。意識が、どこか遠くへ引き延ばされていく。最後に見えたのは、デスクの上に置かれたスマートフォン。画面には、未読の通知がいくつも並んでいた。
――まだ、やることが残っているのに。
その思考を最後に、結城晴臣の意識は途切れた。
「……ここは、どこだ……?」
自分の声が、妙に遠く聞こえる。立ち上がろうとした瞬間、視界の端に影が差した。複数。長く、鋭い影。顔を上げると、そこには槍。鎧。武具。時代劇でしか見たことのない装備を身に着けた男たちが、半円を描くように彼を囲んでいた。
一瞬、喉が鳴る。
逃げる、という選択肢が浮かぶ前に、理解が追いついた。逃げ場はない。
そして――彼らは、迷っていない。耳に届く言葉遣いは古い。聞き慣れない語尾、抑揚。それでも、不思議なことに意味だけは、驚くほど自然に理解できた。
(……翻訳してる? いや、違う……)
考える暇はなかった。兵の一人が一歩踏み出し、低い声で問いかける。
その瞬間、結城晴臣は悟った。これは夢ではない。少なくとも――彼の知っている現実では、ない。
「怪しき風体よ。どこの者だ」
「町人でもなさそうだな」
これは撮影でも、時代村でもない。鎧の造り、兜の意匠、武器の使い込まれ方――知識として知っていたはずの要素が、目の前で揃ってしまった。
(待て。落ち着け。理不尽な社長に比べれば……武装集団に囲まれるくらい、対処不能ではない)
槍先がわずかに前へ出る。その空気を切り裂くように、馬のいななきが響いた。
漆黒の甲冑。鋭く、燃えるような眼光。場の重心が、ひとりで塗り替えられる。
――織田信長。
「面白き男よ」
馬上から見下ろされ、笑みが落ちてくる。
「何者ぞ。見ぬ衣をまとい、恐れもせぬ面構えよ」
晴臣は一拍、呼吸を整えた。逃げ場はない。だが、場を壊すわけにもいかない。
「結城晴臣と申します。身分の低い者でございますが……旅の途中にて、このような場に迷い込みました」
声は震えている。それでも言葉は崩れなかった。長年、立場の違う相手に向き合ってきた癖が、自然と口調を整えていた。
信長はしばし無言のまま、晴臣を見据える。やがて、口元がわずかに緩んだ。
「嘘は申しておらぬな。されど、すべてを語ってもおらぬ顔じゃ」
「……はい。恐れ入ります」
「よい。面白い」
その一言で、場の温度が決まった。
「わしは面白き者が好きよ。殺すには惜しい。連れて参れ」
選択肢は、最初から用意されていなかった。こうして晴臣は、戦国でもっとも危険で、もっとも魅力的な男に拾われることになる。
◆信長の前で、秘書の技能は牙をむく◆
清洲城。
教科書の挿絵でしか知らなかった廊下を進みながら、晴臣は自分の鼓動がやけに大きく響くのを感じていた。
「さて、結城晴臣とやら」
畳に腰を下ろした信長が、じっとこちらを見据える。
「おぬし、何者じゃ。商人でも武士でもない。されど胆力はある。……さては密偵か?」
「い、いえ。違います。密偵ではございません」
声が裏返りそうになるのを、辛うじて抑える。信長の目が細まった。ここで曖昧に濁せば、疑念は確信に変わる。晴臣は腹を決めた。
(嘘は一番まずい。なら、言える範囲で正面から行く)
「私は……未来から来た者でございます」
「ほう?」
信長は眉一つ動かさず、むしろ楽しげに口元を歪めた。
「未来とは、また大きく出たな。申してみよ。その未来の世とやら、戦はどうなっておる?」
「鉄砲は特別な武器ではなくなります。火縄に頼らず、火薬を用いて連続して撃てるものもございます」
「連続、とな」
「馬より速く走る“車”という乗り物も存在します。人を数百里先まで運ぶことができます」
信長の視線が鋭さを増す。
獲物を見定めたときの、それだった。
「……晴臣、と申したな。面白い。ますます気に入った」
「は、はあ……」
「おぬし、わしの側に仕えよ。秘書のような役目じゃ」
「……秘書、でございますか」
「聞き慣れぬか? 気難しき主に仕え、無理難題を処理する者。そういう役目であろう」
(定義が的確すぎるのですが)
喉元まで出かかった言葉を飲み込み、晴臣は姿勢を正した。冗談ではない。だが、拒める空気でもない。
戦国最強の男の傍に立つ。未来を知るという一点だけを武器に、この時代で生きる。
信長が立ち上がり、晴臣の肩に手を置く。
「未来の知識、存分に使え。わしと共に、まだ見ぬ天下を作るのじゃ」
一瞬の間。晴臣は深く息を吸い、頭を下げた。
「…承知いたしました。微力ながら、全力でお仕えいたします。信長様」
「うむ。それでよい」
その言葉を合図に、城内を抜ける風がわずかに向きを変えた。
歴史はまだ静かだったが、確実に、別の流れへと踏み出していた。
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