『白銀の監獄、聖夜の求婚 ——裏切りの果てに、私は夫の檻で生きる』

比絽斗

第1話 聖夜の泥濘(ぬかるみ)

 冬の名古屋。名駅前の大きなクリスマスツリーは、吐き気がするほどに美しく輝いていた。  街中を流れるのは、定番のクリスマスソング。ピアノのイントロが、冷え切った空気を切なく震わせる。


『今宵 涙こらえて奏でる愛のSerenade……』


 耳を掠めた歌詞が、私の心の一番柔らかくて汚い部分を抉っていく。

 雅美(みやび)はコートのポケットの中で、震える指を組んだ。

 これから、一ヶ月ぶりに定治(さだはる)に会う。東京で離れて暮らす、誠実そのものの恋人。本来なら、胸を躍らせて駆け寄るはずの再会だ。


 けれど、今の私の足取りは、死刑台へ向かう罪人のように重い。


 始まりは、一年前。

 中途採用で入社してきた佐伯(さえき)の歓迎会だった。  

 広告代理店の営業職。ストレスと酒が日常の景色となっている職場で、佐伯は異質なほどに余裕を持った男だった。


「雅美さん、遠距離なんでしょ? 寂しくないって言ったら嘘になるよね」


 その一言が、私の心の隙間に滑り込んできた。  翌日、東京から来る定治に会える。その嬉しさの裏返しで、私は少しだけ浮かれていた。あるいは、遠距離ゆえの不安を誰かに埋めてほしかったのかもしれない。

 ビール、ワイン、そして度数の高いカクテル。他の社員たちが盛り上がる中、私は佐伯と二人きりで、密やかにグラスを重ね続けた。


 気がついたときには、ホテルのシーツの中にいた。

 頭が割れるように痛む中、横で煙草をくゆらす佐伯が、私の髪を弄りながら囁いたのだ。


「俺、本気だから。雅美さんのこと、ずっと見てたんだ」


 その言葉を、愚かにも私は信じてしまった。  それからは、坂道を転げ落ちるような毎日だった。定治に会えない夜、電話越しに聞く彼の「愛してる」という声に、私は「私も」と嘘を重ねる。そして電話を切った後、部屋を訪ねてくる佐伯の腕に抱かれる。


 佐伯にとって、私は単なる「目ぼしいターゲット」でしかなかった。

 彼は転職を繰り返し、その先々で手近な女を落とすことをゲームとして楽しんでいる。そんな噂を耳にしたのは、彼が「海外で会社を立ち上げる先輩についていく」と言って、あっさりと退職届を出した後だった。


 捨てられたのだと気づいたとき、私に残っていたのは、空っぽの心と、定治に対する底なしの罪悪感だけだった。


 ——そして今。  目の前に、懐かしい顔が現れる。


「雅美、待たせたかな」


 新幹線の改札から出てきた定治は、以前よりも少し痩せたように見えた。けれど、その瞳に宿る光は温かく、真っ直ぐに私を射抜く。


「……ううん。全然待ってないよ」


 私は、精一杯の笑顔を作った。

 このときの私はまだ知らなかった。

 定治がなぜ、このタイミングで名古屋に来たのか。  そして、彼がどれほどの「毒」をその胸に隠し持っているのかを…

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る