第一幕4章「壊れゆく日々」前編

――また、あの夢を見た。


 目を開けた瞬間、胸の奥でそう呟いていた。

 夢の内容は、いつも同じ。

 白い浜辺、遠くの波、見えない誰かの声。

 けれど、目覚めるたびに、細部が少しずつ違っているような気がする。


 カーテンの隙間から朝の光が差し込む。

 淡い金色が空気を包み、部屋を静かに温めていた。

 セラは布団の中で深く息を吸う。

 夢の余韻がまだ胸の奥に残っている。


「……今日も、いい朝ね。」


 呟いて立ち上がり、カーテンを開く。

 光が部屋に溢れ――一瞬、世界が“静止”した気がした。

 時間が止まったというより、映像の再生が一拍遅れたような。

 セラは瞬きをして、首を傾げる。

 気のせい。そう思うことにした。


 リビングに向かい、コーヒーを淹れる。

 いつもの場所に、いつもの花瓶。

 その中の花が鮮やかに咲いている。


 ――決して枯れることなく、花弁の開き具合、瑞々しさまで、まるで時が止まったかのように変わらず咲き続けている。


 胸の奥に僅かな引っ掛かりを覚える。


「おはよう、エリアス。」


「おはよう、セラ。今日はいい天気だね。」


「ええ、本当に。」


 会話の響き、間の取り方、微笑の角度――

 すべてが、以前どこかで聞いたままの音だった。

 それが昨日なのか、一週間前なのか、あるいはもっと昔なのか。

 思い出そうとしても、時間の手触りが霧のように掴めない。


 食卓を片付けて外に出る。

 風が頬を撫で、空は青く澄んでいる。

 鳥の声が一度響き、そして――まったく同じ音程で繰り返された気がした。

 まるで同じ旋律が二度再生されたかのように。


 セラは立ち止まり、空を見上げる。

 光の粒が整列し、風がリズムを刻んでいる。

 自然のはずの世界が、あまりにも秩序立っていた。


 噴水へ向かう。

 水しぶきが朝日に照らされ、細かな虹を散らしている。

 セラは縁に腰を下ろし、水面に指を伸ばした。


 ――ザザッ。


 短いノイズが頭の奥を打つ。


 ――ッ……!

 ……これは、何なの?


 急な現象に戸惑うセラ。

 しかしノイズは一瞬で、たちまち元に戻る。


 再び噴水を見る。

 すると、水の流れも光の反射も、不自然なまでに規則的で、互いに独立した動きをしていた。

 さらに、噴水の水に触れたはずなのに、手が濡れていない。

 ――水に、実体がなかったのである。


 ――どうして……? 何が、どうなっているの……?


 えも言われぬ不安が胸を締めつける。


 セラは焦燥に駆られるように足早に歩みを進めた。

 花壇の先、小川沿いのベンチに老夫婦が佇んでいる。

 男性は新聞を広げ、女性は編み物をしていた。

 セラは安堵の表情を浮かべ、老夫婦に声を掛ける。


「……おはようございます。」


「いい朝だねえ。」


「ええ、とても。……こうしてお二人が並んでいる姿、素敵です。」


 ――ザザッ。


 再び、頭の奥をノイズが走る。


 ――また、この感覚……いったい、何が起こっているの……?


 次の瞬間、脳裏に光景が閃いた。


----------------


「おはようございます。」

「いい朝だねえ。」

「ええ、とても。こうしてお二人が並んでいる姿、素敵です。」


----------------


 ――前にもこの噴水で、同じ老夫婦と話した。

 同じ言葉を、同じ順番で。

 昨日だったのか、一年前だったのか、それとももっと前だったのか。

 わからない。

 ただ、確かに一度、このやり取りをしていた。

 映像の断片のように、フラッシュバックが胸をかすめる。


 同じ会話。

 同じ語尾、同じ笑み。

 セラの胸の奥に、静かなざわめきが広がった。


 再び老夫婦を見る。

 編み物をしている女性の手は、規則的で機械的に、同じ範囲・速度で動いていた。

 糸は動いているのに、編み物はまったく進んでいない。


 ――ッ……!


 セラは思わず老夫婦のもとを立ち去った。

 足元の石畳が、かすかに震えているような気がした。

 

 青く白んだ空、手入れの行き届いた花壇、鳥の鳴き声、飛び交う蝶。

 この世界は変わってない、変わっていないはずなのに……

 なぜか、世界が静かに壊れていくような…そんな不安な気持ちが抑えられない。


 この感情の正体もわからぬまま、セラは半ば逃げるように公園を後にした。


――世界は変わらず、美しいままだ。


 穏やかな日差しに照らされた晴空の下、子どもたちが駆け回り、外れのベンチでは老夫婦が静かに佇んでいた。



――――――――――――――――――――



――気づけば、昼になっていた。


 朝の光から、いつの間にか太陽は高く昇っている。

 時間を飛び越えたような感覚。

 家事をした記憶も、食事をとった記憶も、なぜか思い出せない。

 それでも空腹はなく、体は自然に動いていた。


 窓の外では、街が穏やかに息づいている。

 風は一定の速度で流れ、木々の葉は同じ角度で揺れていた。

 整いすぎた午後の景色。

 規則的な呼吸のような静けさが、町全体を包んでいる。


「……少し、外を歩いてみようかしら。」


 セラは立ち上がり、玄関を出た。

 扉の向こうに広がるのは、変わらぬ街並み。

 午前と同じ道、同じ建物、同じ光の色。

 だが、どこか違う。

 その「違い」が、何なのか言葉にならない。


 通りの角に、子どもたちが並んでいた。

 同じ服、同じ姿勢、同じ笑い声。

 一人がボールを投げ、他の二人がそれを追いかける。

 笑い声が弾け、ボールが転がる――

 そして、まったく同じ動作が再び繰り返された。


 同じ声。

 同じ笑い方。

 まるで映像がループしているかのように。


 セラは足を止めた。

 心臓が小さく跳ねる。


 ――また、あの“ノイズ”が来る。


 頭の奥で、微かな電流のような感覚が走った。

 視界が一瞬、砂嵐のように揺らぐ。

 目を閉じ、深呼吸。

 次に開いたとき、子どもたちはもういなかった。

 道は空っぽで、風だけが通り抜けていく。


「……気のせい、よね。」


 自分に言い聞かせるように呟いた。

 歩を進める。


 街角のカフェ。

 窓辺の席に、一人の男性が座っていた。

 先ほどすれ違ったはずの人。

 新聞を読み、コーヒーを飲んでいる。

 通り過ぎて数歩後、もう一度振り返る。

 そこには同じ姿勢の同じ男性。

 同じページを開き、まったく同じ動作をしていた。


 セラは息を呑んだ。

 周囲を見渡す。

 人々が穏やかに歩いている。

 誰もが、どこか“同じ表情”をしている。

 穏やかで、整っていて、何も疑わない顔。


 空の色がわずかに変わる。

 光の角度が一瞬だけずれる。

 すぐに戻る。


 ――この世界は、動いているようで止まっている。

 そんな確信が、胸の奥で形になり始めていた。


 気づけば、公園が見えてきた。

 噴水のそば。

 朝と同じ場所。

 そして――そこにいた。


 あの老夫婦が。


 新聞を広げる男と、編み物をする女。

 何も変わらない。

 午前の記憶そのままの姿で、同じ位置に座っている。


 セラは、ゆっくりと近づいた。


「……こんにちは。」


 声をかけても、反応はない。

 風が一度吹き抜け、木々がざわめく。

 女性の手が動く。

 その針は、一秒ごとに、寸分違わず同じリズムで上下していた。

 糸は動き、目は進まない。


 男性の指も、同じ場所をなぞるように新聞の端をめくる。

 同じページ、同じ音。


 ――ザ……ザ……ッ。


 視界の端が歪む。

 世界の輪郭が波のように揺れた。


 セラは思わず後ずさる。

 風の音が止まり、噴水の水音だけが響く。

 規則的な音。まるでメトロノームのように。


 ――これは……現実じゃない。


 その瞬間、胸の奥で何かが“切り替わる”感覚があった。

 恐怖ではなく、理解の予兆。


 セラは静かに噴水を見つめた。

 水は流れている。だが、その軌跡が“型”のように固定されている。

 時間が、流れていない。


 掌を伸ばす。

 空気がわずかに揺れた。

 水面が光を返し、世界が微かに震えた。


 ――その刹那、頭の奥に微かな声が響いた。


 (……見えているのね、セラ。)


 声の主はわからない。

 だが確かに、自分の名を呼んだ。


 セラは目を見開いた。

 しかし次の瞬間、世界は何事もなかったように再構成される。

 老夫婦はいつものように穏やかに笑い、

 噴水は静かに輝いていた。


 風が戻る。

 空気が動く。


 セラは微笑み、息を整えた。


 ――夢じゃない。

 でも、現実でもない。


 その確信だけが、胸に静かに沈んでいた。

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