第12話『官邸のインパチェンス ――日本初の女性総理、泥の付いた靴を脱ぐ――』

赤坂の首相官邸、重厚な扉の向こう側。  日本初の女性総理、鷹司(たかつかさ)エミは、深い溜息とともにマホガニーのデスクに突っ伏していた。


 窓の外には、冬至を過ぎたばかりの冷たい東京の夜景が広がっている。シャンパンゴールドの光の渦。だが、その光の数だけ「声」がある。 「少子高齢化、孤独死、そして制度の隙間に落ちた人々……。私が変えると言ったのに。現実は、何も変わっていない」    彼女の「心のコップ」は、今、冷酷なまでの重責と、理想と現実の乖離から生まれた泥水で満たされていた。国民の期待、野党の追求、そして身内からの足の引っ張り合い。頸動脈がドクドクと脈打ち、脳みその中で「やめろ馬鹿」と誰かが喚いている。


 その時、秘書官が困惑した顔で部屋に入ってきた。 「総理、妙な届け物が……。身元不明ですが、警備をすり抜けて、通用口に置かれていました」


 届けられたのは、高級な桐箱でも、花束でもなかった。  煤けた銀色の鍋と、一冊の、手垢で汚れたボロボロのノート。  題名は、『聖者のスープと、冬萌(ふゆもえ)の街 ――孤独なコップをひっくり返して――』。


「何、これ……。スープ?」  エミが恐る恐る鍋の蓋を開けると、そこから立ち上ったのは、永田町(ここ)では決して嗅ぐことのない、力強い「土の匂い」だった。


 南瓜の甘い湯気、焦げた醤油の香ばしさ、そして柚子の清涼な香り。  エミは、吸い寄せられるように、備え付けの椀にそのスープを注いだ。


 ――熱っ。


 一口啜った瞬間、喉を焼くような熱さが、官邸の冷房で冷え切った身体を貫いた。  南瓜の甘みが、乾いた喉を潤し、根菜の確かな歯ごたえが、忘れていた「生きる実感」を歯茎に伝えてくる。 「……おいしい。……なに、これ。涙が、止まらない……」


 エミは夢中でノートをめくった。  そこには、識字障害の誰かが、一文字ずつ、血を吐くような思いで積み上げた「生身の言葉」が綴られていた。    重蔵という鉄工が、三番ホームで少年にスープを出す話。  「わけわかめ」な制度に弾かれた人々が、ゴミを「運」として拾い始める話。  1700もの物語を消されても、「私はまだ死んでない」と叫ぶ、名もなき作家の執念。


「……そうよ。私が向き合うべきは、数字じゃない。このスープを啜って、熱いと涙を流す、生きた人間たちなのよ」


 エミはノートを胸に抱きしめた。   『総理。神の愛は揺るぎない。けれど、あなたの愛も、揺らいだっていい。……このコップを一度、ひっくり返してごらんなさい。空っぽになったところにこそ、新しい日本が萌(きざ)すんだから』


 ノートの隅に書かれたその一文に、エミは声を上げて泣いた。  承認欲求という名の葬列。役に立たねば価値がないという呪い。彼女自身もまた、その呪いに縛られていたのだ。


「……秘書官。明日の記者会見の原稿、全部書き換えて。……私は、自分の言葉で話すわ。……このノートに書かれた、冬萌の芽吹きの話を」


 エミは、窓を大きく開けた。  冷たい風が、官邸の澱んだ空気を一掃する。  夜空には、冬の大三角が、凛とした蒼い光を放っていた。


 日本初の女性総理が、初めて自分自身を「愛せてる」と感じた夜。  銀色の鍋の底に残った一滴のスープが、この国の、新しい一陽来復の物語を始めていた。


「……おかえり、私。……さあ、戦いましょう。この熱いスープを、誰もが啜れる国にするために」


 彼女の瞳は、もう絶望に曇ってはいなかった。  それは、地獄の底からでも何度でも芽吹く、インパチェンスの強さと、重蔵の鉄の意志を受け継いだ、最高に美しい「救援力」の光だった。


――完。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る