第2話 暴力は日常の中にある(改)
銃声ではなかった。それでも、オーレリオンは足を止めた。人の声だ。
喉を裂くように短く、切迫した悲鳴。
恐怖が限界を越えたときにだけ出る音だと、彼は経験として知っている。
周囲の雑踏が一瞬だけ乱れ、人の流れが微かに歪む。誰も叫ばない。誰も走らない。ただ、それぞれが距離を取り、視線を逸らし、関わらない選択をしていた。
暴力を拒絶しているのではない。
刺激しなければやり過ごせると、無意識に判断しているだけだ。
銃声よりも悲鳴が先に響く街では、
すでに誰かが危険の只中に置かれていることを意味している。
悲鳴が上がった方向は、通りから一本入った細い路地だった
。昼間でも光が届きにくく、店の裏口や非常階段が無秩序に並び、
音が逃げ場を失って反響する場所だ。
オーレリオンは足を早めることなく、その空間に踏み込む。
走れば周囲の注意を引く。だが今は、それよりも状況を乱さないことを優先した。
路地の奥には、互いに距離を詰め合う二つの気配と、
逃げ場を探して呼吸を乱す一つの存在があった。
刃物の鈍い光が瞬いた瞬間、選択の余地はなくなる。
ここで介入しなければ、悲鳴は次の音に変わる。彼は静かに、そう理解した。
刃が振り下ろされるまでの時間は短い。だがオーレリオンには十分だった。
彼は距離を詰めながら、刃物の質量と構造を一瞬で把握する。
鋼の成分、結晶の並び、力が集中する位置。
それらを壊すのではなく、意味を失わせる方向へと調整する。
振り切られる前に、金属は手応えを失い、刃は途中で鈍い音を立てて
先端から欠け落ちた。切断力を失ったそれは、ただの重りに変わる。
男は違和感に目を見開き、腕は空を切り、勢いだけが残った。
被害者は声も出せず、その場で硬直する。
オーレリオンは踏み込まず、距離を保ったまま、
攻撃が成立しないという結果だけを静かに確認した。
刃を失った男は一瞬理解できず、次の瞬間に怒鳴り声を上げた。
恐怖ではなく怒りだ。失われたはずの優位を取り戻そうとする衝動が、
身体を前へ押し出す。拳が振り上げられ、距離を詰めようとするが、踏み込んだ足に力が伝わらない。オーレリオンは退かない。
ただ一歩だけ角度を変え、関節の動きを阻害する位置へ力を通す。
打撃は当たらない。
衝突の直前で力は逃げ、腕は思うように動かなくなる。
男は自分の身体が裏切った理由を理解できず、苛立ちと混乱を募らせる。
それでも彼はまだ倒れていない。生きている限り戦えると信じ込み、
その考えだけが、この場の緊張をさらに引き延ばしていた。
残された男は地面に膝をついたまま、動かない手足を何度も確かめるように
視線を落とした。力は奪われているが、痛みはない。
折れた骨も、裂けた皮膚もない。だから理解できない。
なぜ自分は立ち上がれないのか。喉を鳴らして助けを呼ぼうとするが、
声は形にならず、空気を震わせるだけで終わる。
オーレリオンは距離を保ったまま、その様子を見届ける。触れれば拘束になる。
だがそれは、ここで行うべきことではなかった。
男が生きている限り、再び立ち上がろうとする可能性は残る。
それでも今は、戦う力だけが失われている。
路地の外から人の気配と音が戻り始めるのを感じながら、
その状態を確認すると、オーレリオンは視線を外し、その場を離れる準備をした。
男の一人は動けなくなった仲間を一瞥し、舌打ちを残して路地の奥へ走り去った。
追う者はいない。足音はすぐに遠ざかり、壁に反射していた緊張だけが
遅れて消えていく。被害者は壁に背を預けたまま、数度深く息を吸い、
指先の震えが収まるのを待ってから視線を伏せてその場を離れた。
礼の言葉も、振り返りもない。ただ生き延びたという事実だけを抱え、
日常へ戻ろうとしていた。誰も引き留めない。声をかける者もいない。
通りの喧騒が少しずつ戻り、遠くの車の音や人の話し声が、
出来事を包み隠すように重なっていく。路地には、恐怖の残滓だけが薄く漂う。
倒れた男は呻きながらも意識を保ち、助けを呼ぶこともできず、
周囲から距離を取られたまま時間が過ぎるのを待つしかなかった。
通り過ぎる視線はあっても、関与はない。事態は終わった。
だが解決したわけではない。
路地の入口から少し離れた位置で、一人の制服警官が足を止めていた。
通報に応じて近隣を巡回していたが、雑踏の中で異様な沈黙が生まれた瞬間、
身体が先に反応した。暴力が起きる直前の空気と、起きたあとの静けさ。
その違いを、彼は現場経験として知っている。警官は路地の奥を見据えたまま、
無線に手を伸ばしかけて止めた。刃物が役に立たず、殴りかかろうとした男の身体が思うように動かなくなり、抵抗が成立しないまま事態が終わる。
その過程に、押さえつける力も、拘束の動作もなかった。触れた形跡すら見えない。それでも結果だけが、はっきりと残っている。
胸元のボディカメラは作動したままだった。
何を記録したのか、彼自身にも分からない。
ただ、これは偶然ではないと直感していた。
だが、報告書に落とし込める言葉が見つからない。
警官は視線を切り、群衆の一部としてその場をやり過ごした。
路地を離れたあとも、オーレリオンの歩調は変わらなかった。
背後で何が起きているかを確かめることもしない。振り返れば、関与になる。
それは彼が選ばなかった行為だ。誰も死ななかった。
刃も拳も、人を壊すところまでは至らなかった。
それだけの結果を残し、彼は街の流れへ戻る。
だが暴力そのものが失われたわけではない。
逃げた者はどこかで呼吸を続け、残された者も、
いずれ立ち上がる可能性を持っている。今日止まったのは、この場所だけだ。
そう理解しても、足は止まらない。
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