第03話:時計師は、男子禁制の檻の中に立つ

 帝立魔術学園。そこは、この大陸において最も純粋な血脈が集い、同時に最も冷酷な市場原理が支配する「美しい貯蔵庫」だ。


 空を突くような尖塔は白金で彩られ、敷地内を流れる人工の小川には、魔力の残滓が七色の鱗となって揺らめいている。


 しかし、その瀟洒な石造りの校舎に閉じ込められた少女たちは、自らが「高価な商品」であることを、幼い頃からその骨髄に刻み込まれて育つ。


 魔術の研究が進めど、両親の魔術が子へと継承されるという科学的根拠は、ほとんど存在しない。


 再現性のない交配。魔術がすべてを支配する世界において、人は科学的な根拠が存在しないと知りつつも、その妄信からは逃れられなかった。


 優れた魔術は、より強力な次世代を産むための絶対的な資産。ゆえに、彼女たちは己を磨き上げる。


 それが自身のためではなく、未来の婚姻という名の取引において、一分でも高く家門を売り抜くための看板であることを知りながら。


 男子禁制という厳格な掟は、彼女たちの純潔と希少性を保護し、市場における「品質」を保証するための、無機質な管理システムに過ぎない。


 学園の教師や少女たちのお世話を任された従者でさえ、その例外はなく、彼女たちの商品価値を下げる可能性のあるものは徹底的に排する掟が敷かれている。


 家名や掟に絡め取られた少女たちが自らの意思で決定することを許されているのはただ一つ、


 己の従者である。


 学園は、少女と、その魔導具を管理し、身の回りを支える「従者」による二人一組制度を義務付けていた。


 主人の魔力を引き出す魔導具を常に最高の状態に保つこと。それが、商品価値を維持するための絶対条件であったからだ。


 そんな、血の匂いが漂うほどに完成された秩序の入り口で、リズは一人、己の存在そのものが生み出す不協和音に眉をひそめていた。


「……合理的とは言えませんね。生命の価値を数式ではなく、血統という名の確率論に委ねるなど」


 リズは、支給された漆黒の燕尾服の袖口を、指先で微調整しながら小さく息を漏らす。


 職人としての矜持を肌で覚え、鋼の冷徹さと時計の刻む一秒の不変を愛する彼女にとって、この学園に満ちる空気は、吐き気がするほどに甘く、そして死を予感させるほどに腐っているように感じられた。


 通常、帯同を許される従者は、フリルをあしらった贅沢な侍女服を纏う「侍女」か、油の匂いを隠そうともしない実用本位の作業着に身を包んだ「職人」である。


 だが、リズの元に届けられたのは、そのどちらでもなかった。最高級の絹を用い、職人の手によって緻密な銀刺繍が施された、男装用の燕尾服。


『男装して工房で働くのがそんなに好きなら、そのまま私の影として一生跪きなさい。それが、私を騙そうとしたあなたへの罰よ』


 添えられたエルゼの手紙の文字は、鋭く、そして歪んでいる。リズは冷静さをもって、その稚気染みた、けれど逃げ場のない執着を無言で受け入れた。


 シャツのボタンを一番上まで、喉仏のない首筋を隠すように留める。晒し布で、大人の女性としてふっくらと膨らんだ胸を、痛みを感じるほどに厳重に殺す。


 銀髪を冷ややかに束ね上げる際、鏡に映る自分の顔が、かつての男装よりもさらに「青年」としての純度を高めていることに気づき、リズは皮肉な笑みを漏らした。


 十年以上守り続けてきた、あの静かな工房。油と鉄の匂いに満ちた、自分だけの絶対領域。そこを離れ、年下の少女の所有物として檻に入る。


 その事実に、鋼のように鍛え上げた彼女の心も、わずかに軋みを上げていた。


(……たとえ檻の中でも、刻むべき時が変わることはない。そう、自分に言い聞かせるしかありませんね)


 リズは、男子禁制の結界が張られた正門を、淀みなく踏み越えた。


 肉体的な性別が女性であることを、門に設置された古代の魔導具が瞬時に検知し、静かに通行を許可する。


 その瞬間、かつての自由が指の間からサラサラと零れ落ちたような喪失感がリズを襲った。


 彼女は無意識に、燕尾服の隠しポケットに収めた自分専用の懐中時計を強く握りしめる。


「あら、意外と素直に来たのね。逃げ出す準備でもしているかと思ったけれど」


 大理石の噴水の前、入学式を待つ新入生たちの喧騒の中に、エルゼ・フォン・アステリアは立っている。


 本来、この学園は十五歳から始まる高等教育の場であるが、エルゼは十四歳でここに立っていた。最強の「時」の魔術を十全に発現させたがゆえの、異例の飛び級入学。


 彼女はこの学園において最も若く、最も高価で、かつ最も制御不能な「最高級の結晶」であった。


 彼女の胸元には、あの日リズが納品した銀時計が、宝石を散りばめた他の令嬢たちの魔導具を嘲笑うように、鈍い光を放って吊るされている。


「……拒否した場合のコストを計算した結果です。エルゼ様。今日からあなたの従者として、お側に」


 リズは恭しく、完璧な所作で一礼した。燕尾服の裾が風を孕んで翻り、スラックスから伸びる長い脚が、無駄のない優雅な歩みを刻む。


 周囲の新入生たちの間に、静かな、けれど確かな熱を帯びた動揺が走った。


「あの方は……どなた? 侍女服でも作業着でもない、燕尾服をあんなに完璧に着こなすなんて」


「なんて凛々しい女性なの。まるで、古い歌劇に出てくる悲劇の騎士のような佇まいね……」


「アステリア様の従者? あんなに研ぎ澄まされた美しさを持った人が、この世にいたなんて……」


 羨望と、同性ゆえに隠しきれない熱烈な眼差し。


 売買されるのを待つだけの、寄る辺ない少女たちにとって、自立したプロフェッショナルの空気を纏い、エルゼの意地悪な贈り物を完璧な「従者」へと昇華させたリズの姿は、あまりにも眩しく、暴力的なまでに魅力的に映る。


 エルゼは、周囲の視線がリズに釘付けになっていることに、わずかな苛立ちを覚えた。


 自分の「所有物」が、他人の目に無防備に晒されていることへの不快感。


 そして同時に、自分より十歳も年上の、完成された大人の女性を、自分の意志一つでここに縛り付けているという事実に、胸の奥が熱くなるのを禁じ得なかった。


(……そうよ。あなたのその不器用な真面目さも、磨き抜かれた指先も全部、私だけのものなんだから)


 エルゼはリズに詰め寄り、周囲に聞こえないほどの低声で囁いた。その声は、甘く、けれど拒絶を許さない鋭さを持っていた。


「今日からあなたは、私の『所有物』。私の従者として、この檻の中で私を一生支え続けなさい。時計の整備から、私の肌の世話まで……。あなたが望んだ男装のまま、私だけの影でいなさい。……嫌だなんて言わせないわよ」


 最後の一言に混じった、十四歳相応の、微かな、けれど切実な不安。


 それに気づいたリズは、冷徹な仮面の裏側で、ふっと困ったような笑みを漏らしそうになった。


 この少女は、世界を掌握できるほどの力を持ちながら、その心はまだ、壊れやすいガラス細工のままだ。


「承知しています。あなたが私の時間を買い取ったというのなら、対価に見合う仕事は完遂しましょう。それが、一秒の端数さえ許さない職人の流儀ですから」


 リズの声は安定していたが、その響きには、冷たさだけではない「年上の包容力」が僅かに混じっていた。十歳年下の主人の無茶苦茶な支配欲を、リズは嵐をやり過ごす大樹のように、静かに受け止める。


「さあ、いくわよ。これからあなたは私の許可なく行動することはできないのだから。分かった?」


「ええ。仰せのままに」


 エルゼは満足げに頷くと、リズの少し前に立ち、自慢の所有物を誇示するように、羨望の視線の中を悠々と歩き出した。


 リズは無言で、精密工具を隠し持った重い革鞄を提げ、その背後に従う。漆黒の燕尾服を纏い、周囲の少女たちの溜息を置き去りにして歩くその姿は、確かに誰よりも高潔な、そして誰よりも孤独な「従者」そのものだった。


 白大理石の廊下を抜け、巨大な講堂へと続く通路。その天井には、星々の運行を魔力で模したとされる、学園自慢の巨大魔導時計が埋め込まれていた。


 リズは歩みを止めぬまま、それを見上げた。その瞬間、彼女の瞳に職人としての……そして、この歪な世界を憂う一人の女性としての、容赦のない蔑みが走った。


「……九秒の遅れ。エルゼ様、この魔導時計自体が、あまりにも精密さに欠けます。能力の継承を謳い、優れた血筋を誇る前に、まず一秒の正確さを学ぶべきです」


「なっ……! ちょっと、何よ急に。あ、待ちなさい! 勝手に歩くなんて許さないわよ、リズ!」


 エルゼの絶叫が、静謐な学び舎を真っ向から引き裂いた。


 時計師リズの、不遜で、それでいてどこか人間臭い「調律」の日々が、今ここに幕を開ける。


 リズは誰にも気づかれぬよう、少しだけ、燕尾服の窮屈な襟を緩めた。その指先は、すでに次の「修正」を求めて微かに震えていた。


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