第二章 名前を、初めて呼ぶとき

ファミレスの店内。


「……あの」


背後から、小さな声。

倉田俊弥は振り返った。


白いTシャツにデニムスカートの女の子が立っていた。

頬がほんのり赤く染まっている。


智恵は両手をぎゅっと握りしめ、爪が掌に食い込むほど力を込めた。

胸がうるさい。息が浅い。

今逃げたら二度と会えない気がして、必死に言葉を絞り出す。


「……あの……また、会いましたね」

「この前……ロードバイクで事故したときに、お世話になった……高宮智恵です」


俊弥は一瞬、記憶を掘り起こした。


「あ……あのときの」


確かに同じ顔だ。

でも、あのときは泥だらけで表情が死んでいたから、正直「随分変わったな」と思った。

今は目が潤んでいて、頬が赤くて、笑顔が柔らかい。

ギャップに少しだけ驚いたが、崖から落ちるような事故だったにもかかわらず元気そうでほっとする。


「元気そうでよかったです。あのときは心配しました」


智恵は小さく頷いて、視線を少し逸らしながら呟いた。


「今日は……姉たちと来てて……偶然、見かけて……」


ちらりと横を見ると、向こうの方のボックス席で若い女性たちが固まっているのが見えた。


俊弥は軽く会釈して、

「そうなんですね。大きなケガもなくて本当に良かったです。」

とだけ言った。


智恵は一瞬、唇を噛んで、震える手でスマホを取り出した。


「……よかったら、LINE交換してもらえますか」

声は低く、ほとんど掠れていた。


俊弥は一瞬瞬きをして、すぐにスマホを出した。

「いいですよ。自転車の話ができる人、増えるのは嬉しいんで」


あっさりとした口調。

ピコン、と音がした。


智恵はスマホを胸にそっと押し当て、小さく頭を下げた。

「……ありがとうございます」


俊弥は軽く笑って、

「じゃあ」

とカウンターに向かった。

背中を向ける瞬間、智恵が耳まで赤くなっているのに俊弥は気づかなかった。


――


◆姉妹サイド 「確信の瞬間」


ボックス席、隅っこのテーブル。

理恵はコーヒーカップを握ったまま、完全に固まっていた。


「……あれ、智恵が……笑ってる」

声が震えている。

あの病院のとき、迎えに行ったときにいた人だ。間違いない。

でも、こんな距離で改めて見ると、背が高くて、落ち着いてて……予想以上にちゃんとした大人だった。


隣では、冴恵と弥恵が同時に身を乗り出していた。


冴恵(小声で)

「え、誰!? 智恵お姉が話しかけてる人誰!? しかも……笑ってる……!」


弥恵(目を丸くして)

「マジで!? 智恵お姉が自分から男の人に話しかけてるの初めて見た! しかも耳真っ赤じゃん! 超可愛い!」


二人はテーブルに頬をつけて、完全に覗きモード。

冴恵はスマホを構えたが、理恵に「撮るな」と肘で小突かれて渋々下ろした。


理恵だけが、あのときの記憶を鮮明に思い出していた。


理恵(小声で)

「……この前智恵が事故したとき、病院まで運んでくれた人だよ。確か……倉田さんって言ってた」


冴恵&弥恵

「えっ!? あの噂のヒト!?」


二人はますます前のめりになる。


弥恵「かっこいい……! 背高いし!」


冴恵「でも落ち着いてるね。智恵お姉があんなに笑顔なのに、向こうは普通に話してる……」


理恵は、智恵の横顔を見つめたまま、胸がぎゅっと締めつけられるのを感じていた。


「……智恵が、あんな顔するの、ほんとに久しぶり……高校のとき以来、いや……もっと前かも」

理恵は誰にも聞こえない声でそう呟いた。


父親との大喧嘩以来、智恵は家族の前でも笑わなくなった。

それが今、知らない男の人の前で、あんなに素直な笑顔を見せている。

嫉妬じゃない。

ただ、胸が熱くて、目頭が疼いた。


智恵がスマホを出した瞬間、

「うわ! LINE!? 交換してる!?」

弥恵がそう小声で絶叫する。


「えっ!? 智恵お姉が自分から!?」

信じられないという顔をして冴恵が言う。


理恵は二人を「しーっ」と制しながら、自分も息を殺して見守った。


智恵がスマホを胸に抱きしめて、小さく頭を下げた。

その仕草に、三人同時に胸を押さえた。


……あの子、本気だ。

理恵は心の中でそう思った。


智恵が席に戻ってくると、

理恵「……おかえり」

冴恵「誰!? 誰!?」

弥恵「連絡先ゲットした!? したよね!?」


智恵は無言で小さく頷いただけで、顔を真っ赤にしたまま俯いた。


その瞬間、三人は確信した。


これは、もう始まっている。

そして、自分たちはまだ、名前も知らない「その人」の正体を、ちゃんと確かめなきゃいけない。と……


――


その夜。


智恵はアパートに帰ると、玄関の鍵を閉めて、靴を揃えて、電気もつけずに真っ暗なままリビングへ歩いた。


カーテンの隙間から街灯の光が細く差し込んでいるだけ。

その薄明かりの中、ソファに腰を下ろす。


スマホを両手で包むように握ったまま、しばらく動けなかった。


胸の奥が、じんわりと熱い。

鼓動が耳にまで響いている。


ただ、静かに、静かに、息を吸って、吐いて。


画面を点ける。

ロックを外す。

トーク一覧の一番上に、新しい名前がある。


「倉田俊弥」


その文字を見るだけで、胸の奥がきゅっと締めつけられる。

これまで感じたことのない、甘い痛み。

あの事故の日から、毎日毎日、頭から離れなかった顔。

声。

手の温もり。

ようやく繋がった。

これで、消えていかない。

でも、同時に怖い。

この気持ちが、何なのか。

自分じゃないみたいで、でも本当の自分みたいで。

涙が、にじむ。

でも、拭かない。

ただ、指を動かす。


ゆっくりと、確実に文字を打つ。


「今日はありがとうございました。高宮智恵です。」


送信。

画面が暗くなるまで、じっと見つめる。


返信はすぐに来た。


【倉田俊弥】

「どういたしまして。無事でよかったです。また自転車の話でもしましょう。」


たったそれだけ。

でも、智恵はスマホを胸に押し当てて、ゆっくりとソファに横になった。


目を閉じる。

暗闇の中で、唇が自然に緩む。

頬が熱い。

耳の奥で、まだあの声が響いている。


「……会えた」


小さな、誰にも聞こえない呟き。


涙が一粒、こぼれた。

でも、それは嬉し泣きだった。


智恵はスマホを胸の上に置いたまま、静かに天井を見上げた。

息が少しずつ深くなって、肩の力が抜けていく。


「……また、話せる」


それだけで、世界が少しだけ優しくなった気がした。


この気持ちは、恋?

いや、そんな言葉じゃ足りない。

これまで避けてきた人間関係。

父親の影。

勉強の苦痛。

全部が、ぼんやりと遠のいていく。

代わりに、心の中心に、温かい何か。

触れたい。

聞きたい。

知りたい。

怖いのに、止められない。


暗い部屋の中、智恵はただ、静かに、静かに、胸の奥に灯った小さな火をそっと抱きしめた。

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