僕のバグは、先輩(あなた)への執着だけ。 ~完璧を演じた僕が壊れて、もう一度君と恋をする話~

だし巻き卵

1章 不適合な僕が、君だけのヒーローだった季節

第1話 完璧な歯車と、硝子の蝶

鏡の中の自分と向き合い、黒髪のマッシュヘアを整える。  指先で前髪のラインを微調整し、清潔感のある「佐藤湊」を完成させる。これが、僕が社会という戦場に立つための、唯一の防具だ。


 駅を流れるアナウンス、すれ違う人々の靴音、コンビニのレジの電子音。  僕の世界は常に、情報の洪水だ。  普通の人ならフィルターをかけて無視できるはずの雑音が、僕の脳には等しい音量で突き刺さる。  だから僕は、誰よりも早くオフィスに着き、整えられた自分の席に「避難」する。


「佐藤くん、おはよう。今日も早いんだね」


 同僚の挨拶に、僕は練習通りの、嫌味のない笑顔を返す。 「おはようございます。静かな方が、集中できるので」    そう。仕事という一つの「点」に意識を絞り込めば、世界を支配するノイズを消し去ることができる。  数字の羅列がパズルのように組み合わさり、複雑な関数が美しい秩序を保つ。  この「過集中」という特性だけが、僕を「有能な若手」というポジションに踏み止まらせてくれていた。


 しかし、その静寂は、午後一番のオフィスで無惨に引き裂かれた。


「――ねえ、冬月さん。ちょっといいかしら」


 心臓を冷たい手で掴まれたような感覚。  フロアの奥から、粘り気のある、鋭い声が響く。お局の佐々木だ。  ターゲットは、僕の二つ隣のデスク。


「はい、何でしょうか」


 冬月(ふゆつき)先輩が、小さく肩を震わせて立ち上がる。  茶髪のショートヘアに、幼さの残る童顔。  三十五歳、シングルマザー。僕より十歳も年上の女性なのに、その頼りなげな佇まいは、いつも僕の胸の奥をキュッと締め付ける。


「この資料、またミス。これ、先方に送るはずのものよね? 桁が一つ違うじゃない」 「え……すみません、すぐに確認します」 「確認? そんなの当たり前でしょ。あんたさ、時短勤務で早く帰る分、周りにどれだけ迷惑かけてるか分かってる? だから子持ちは困るのよ、責任感がなくて」


 佐々木の声が、静かなオフィスに鋭く響く。  冬月先輩の顔がみるみる青ざめていく。彼女が責任感のない人だなんて、嘘だ。誰よりも遅くまで、必死にキーボードを叩いている背中を、僕はいつも見ている。  佐々木がわざと複雑な手順を指示して、彼女を追い詰めているのは明白だった。   「……申し訳、ありません」 「謝る暇があったら拾いなさいよ。……おっと、手が滑っちゃった」


 わざとらしい音を立てて、佐々木がデスクの上の資料をなぎ倒した。  床一面に散らばる、白い紙。  冬月先輩が、震える指先でそれを拾おうとして、膝をつく。


 その瞬間。  僕の脳内のダムが決壊した。


 周囲の雑音がすべて消え失せる。  ただ、床に膝をついて、涙をこらえている彼女の肩だけが、スローモーションのように視界に飛び込んできた。    ――助けなきゃ。    それは理論でも計算でもない、悲鳴に近い衝動だった。  僕は自分のデスクから飛び出し、気づけば二人の間に割って入っていた。


「佐々木さん。その書類、僕が確認します」


 自分の声が、自分のものではないように低く響いた。


「な、なによ、佐藤くん。今、冬月さんに指導してるところで……」 「指導なら、もっと効率的にすべきです。その見積書、参照しているのは先月の旧データですよね。冬月先輩は、あなたが先ほど渡した『指示書』の通りに作っています。つまり、ミスをしたのは指示を出したあなたの方です」 「は……? 何言ってるのよ!」 「事実を言っているだけです。これ以上の無駄な叱責は、部署全体の生産性を下げます」


 僕は、床に散らばった書類を一枚一枚、丁寧に拾い始めた。  驚くほど指先が冷たい。心臓が、耳元で鐘をつくようにうるさく鳴っている。  自分でも信じられないほど、論理が次々と溢れてくる。今の僕は、彼女を傷つける「不条理」を排除することだけに、脳のすべてを注ぎ込んでいた。


「……先輩」


 僕はしゃがんだまま、冬月先輩に声をかけた。  彼女の茶色の瞳が、涙で潤んでいる。その震える手を見て、僕は自分の手を重ねたい衝動を必死で抑えた。


「大丈夫です。ここは僕が片付けますから。……先輩は、給湯室へ行って、少し水を飲んできてください」 「でも……佐藤、くん……」 「お願いです。今の先輩の顔を見てると、僕……仕事が手に付かないんです」


 それは、本音だった。  彼女が泣きそうな顔をしているだけで、僕の世界は真っ暗なノイズで埋め尽くされてしまう。  僕は彼女を見上げ、できるだけ穏やかに、健気な「後輩」としての笑顔を作った。


「あ、ああ……分かった。佐藤くん、冬月さんを休ませてあげて」


 遠くで課長が、気圧されたように頷く。    僕は先輩の背中を、触れない程度の距離で促し、給湯室へと導いた。    ――給湯室。  ドアを閉めると、ようやく外の騒がしさが遮断された。  換気扇の低い音だけが、今の僕には心地よかった。


「佐藤くん……本当に、ごめんね。私のせいで、あなたが佐々木さんに睨まれちゃう……」


 冬月先輩が、壁に寄りかかって弱々しく呟く。  僕は彼女から一歩、距離を置いた。  本当は、その震える肩を抱き寄せて、大丈夫だと言ってあげたかった。でも、今の僕にはそんな資格はないし、彼女を怖がらせたくなかった。


「……睨まれても、いいんです」    僕は、自分の爪が手のひらに食い込むほど拳を握りしめた。   「僕は、先輩に笑っていてほしいだけなんです。あの……さっきの仕事、僕が完璧に直しておきますから。先輩は何も心配しないで、ここで少し休んでいてください」


 健気に、ひたむきに。  彼女が「自分のせいだ」と責めないように、僕はただの『親切な後輩』を演じ切る。  でも、自分でも気づいていない。    自分の脳の偏りが、この「助けたい」という純粋な気持ちを、いつか制御不能な「執着」へと変えてしまうことを。   「……ありがとう。佐藤くん、本当に優しいんだね」


 先輩の言葉に、僕はまた、作り物の笑顔で応えた。  黒髪マッシュの下で、心臓が痛いほど脈打っている。    彼女を守りたい。  その一心で、僕は再び、戦場のようなフロアへと戻るためにドアノブに手をかけた。

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