変。 ―まだ飛べないぼくら―
袖山静鹿
変。遭遇す
1
茹だるように暑い校庭に、蝉の声が響いていた。
校舎前にある花壇に植わっている桜の木に、羽化したばかりの蝉が留まっていた。蝉の羽は小さく丸まっていて飛べそうにない。先ほどまで自分の体だった抜け殻に、じっとしがみついている。
近くで観察しても蝉は鳴かない。ただ、黒い複眼にこちらの姿を映すだけだ。それが、ひどく不気味だった。
背後から黄色い歓声が聞こえた。
振り返ると、フェンスの向こうで水泳部が練習している。ちょうど冨田唯がプールから上がる姿に目が留まった。
特段探したわけではない、彼女だけが空と同じ色の水着だから目立つだけだ。
冨田がプールサイドへ上がると、下級生の女子部員が彼女の元へ駆け寄っていく。彼女は長い手足を振って水を払い、女子部員と談笑し始めた。
彼女の笑顔は、花がほころぶ、という表現がよく似合う。
彼女はとても綺麗だ。
額の丸み、スッとした鼻、シャープな顎の線。体も均等が取れていて、水着から伸びた脚は透けてしまいそうなほど白い。
水着で押さえられた胸の膨らみを見ていると、卑猥な妄想が膨らんで体が勝手に反応する。
夏の日射しのせいか頭がぼんやりする。
動悸がして、脈を打つたびに心の穢れが溶け出す。酸っぱい汗の臭いが鼻先を掠め、顎先からぽたりと地面に落ちた。
見下ろすと、ジャージにジュニアのシルエットがくっきりと浮き上がっていて、ぎょっとする。
ポケットの中から彼を押さえつけてやると、彼は嬉しそうに静かに主張した。
蝉の声が頭の中で反響する。
気がつくと、もう片方のポケットに入っているスマホを取り出し、カメラを起動していた。
とんだ変態野郎だと自身を罵りながらも、その手を止められず、画面の中央に冨田と女子部員を収めている。
しかし、誰だかわからないほどに被写体は小さい。頭の中が熱い。画面を拡大すると、可愛い彼女の顔がようやく認識できる大きさになった。
携帯を持つ手が小刻みに震える。
本当に撮っても良いのか、と良心が訴えかけてくる。
聴覚が鋭くなり、動悸と蝉の声が耳の中で響く。微かな風の音まで耳に入る。撮れ、撮れ、とジュニアが囁く。
カシャ、と電子音が鳴った。
気がつくと画面に撮影された二人の姿が画面に映っている。
「おい」
突然、背後から肩を叩かれた。
戦慄が体を貫き、スマホが手から滑り落ちた。
背後の人物に見られてしまった。
怖くて後ろを振り返られないでいると、ケラケラと笑い声が聞こえた。
田中の声だ。
「びっくりしすぎじゃね」
振り返ると、田中は憎ったらしい表情を浮かべていた。
彼の青い坊主頭が汗でてかてかと光っている。
どうやらバレていないらしい。それがわかると屈託のないニヤけ顔が、後ろめたさよりも憤りを呼び起こす。
「そがん怖か顔せんでよかやん。何かよかことでもあったと?」
「なんもなか」
僕はつっけんどんに答えた。
スマホを拾い上げると、真っ暗な画面に安堵した顔が映っている。
「お前、また冨田でスケベしよったやろ」
「そがんこと一回もしたことなか」
動揺で語尾の間が抜ける。
まあまあ、と田中は軽く受け流すと、僕の前を通過してフェンスの編み目を掴んだ。
「まあ、その気持ちめっちゃわかるばい。冨田ってうぶっぽくてよかよな……。意外と胸もあっていいよなあ」
うんうんうん、と田中はいいよなおじさんのように頷いた。
「彼女をそがんふうに言うな」
どの口が言うのだ。
ただ田中に冨田を穢された気がして、反射的に声を上げていた。
こちらを振り返った田中は苦笑いを浮かべている。
「でも冨田はやめといたほうがよかばい、マジで」
なんで、と追究しようとした瞬間――
「田中」と顧問の武田の声が辺りに響いた。
グラウンドを振り返ると、武田がきょろきょろと周囲を見回している。
「やっべ、お前もはよ戻らんと怒られるばい」
田中は言いながら、大慌てでグラウンドへ走り去った。
田中はお調子者で、クラスでも部活でも先生に目をつけられている。
口癖は、彼女欲しい、と童貞捨ててぇ、の二言だ。
しかし、結局のところ彼女に対する僕の気持ちは、田中の破廉恥な心と変わりない。
深いため息を吐いてプールへ視線を戻す。
彼女はクロールで水面を滑るように泳いでいる。県内一、二を争う人は素人目に見てもやっぱり速い。
付き合えたらいいのにな。そんな淡い願望を抱くも、自分とは釣り合いが取れないと痛感する。
校内模試も一位。対する自分は中の中、よくても中の上。
彼女と比べると目を覆いたくなるほどの凡骨さだ。
何気なく携帯の画面を点けると、先ほど撮った写真が表示された。冨田と女子部員の水着姿が粗い画質で映っている。
頭の奥が急速に冷えていく。蝉の声、グラウンドの生徒達の声が脳の奥に突き刺さる。
顎を伝って、地面にぽたりと落ちた汗が自分の影の胸辺りに染みこんでいく。アスファルトに浮かぶ自分の影がこちらをじっと覗いている。
これは夏のせいなんだ。
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変。 ―まだ飛べないぼくら― 袖山静鹿 @shizka_sleeve
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