第2話 池谷 大河②
「はぁ……はぁ……はぁ……」
気が付くと俺は……最寄りの駅近くの商店街にいた。
なぜ足がここに向かったのかは……自分でもよくわからない。
足は鉛のように重く……呼吸も乱れ切っている。
全身から噴き出す汗がシャツに張り付いて気持ち悪い……。
体のあちこちが疲労を訴えている。
家から商店街まで少々距離があるとはいえ……休日にはこの倍以上の距離をランニングしている俺が……ここまで疲弊しきるなんて……精神的なダメージがそのまま身体にも影響を及ぼすことは理解しているつもりではあったけど……ここまで来るものだったのか……。
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「大河?」
不意に声を掛けられた俺は反射的に顔を上げて、声の主に視線を向けた。
「たっ龍男(たつお)……」
そこに立っていたのは……幼馴染で親友の龍男だった。
こいつとはガキの頃からの腐れ縁で……今でもよく2人で飲みに行く仲だ。
「なんでここに……」
「なんでって……普通に晩飯買いに来たんだよ。
それよりお前こそ、なんでこんなところいるんだ?
今日は音瑚ちゃんの誕生日なんだろ?」
「それは……なんというか……」
「まあこんなところで立ち話もなんだ……ひとまず俺ん家に来いよ」
「あぁ……」
俺は龍男の言葉に甘え……奴の家に招かれることにした。
どうにも足元がおぼつかず……見かねた龍男に肩を借りなければ、2度3度転んでいただろう……。
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「1本おごるよ」
「悪い……」
家に招いてくれた龍男は、缶ビールを1つ差し出してくれた。
こいつなりに俺を元気付けようとしてくれているんだろう……。
ビールを半分ほど飲むと……胸のモヤもビールと共に喉の向こうへと流れていったように思えた。
ほんの少しだけな……。
心にわずかな余裕が生まれると、俺はポケットに入れているスマホがブルブル震えていることに気が付いた。
スマホ取り出して確認すると……案の定、千鶴からのラインや着信が届いていた……それもこの2時間で何十件も……。
その内容はどれもこれも……。
『今どこにいるの?』
『ちゃんと話し合おう?』
『私が愛しているのは大河だけなの! 信じて!』
『お願いだから電話に出て!』
とにかく俺と話をして戻ってもらおうと必死な感じだ。
でもこれだけ多くのメッセージを送っているにも関わらず、不貞に関する謝罪の言葉は1つもなかった。
自分が不貞を犯していると、全く自覚していないんだな……やっぱり……。
ブルブル……。
それからもラインや着信の嵐は鳴りやまず……。
返事をする気もない俺はスマホの電源を切って強制的に黙らせた。
「はぁ……」
「少しは落ち着いたか?」
「あぁ……なんとかな。 悪い……」
「それで……一体どうしたんだ?
なんかえらくやつれているように見えるけど……」
「……」
さっき洗面所の鏡で俺も自分の鏡を見た……。
龍男の言う通り……俺の顔はまるでゾンビのようなひどい有様だった……。
音瑚の誕生日を祝おうとウキウキしながら帰宅していた時……ちらっと理髪店の窓に映っていた時に見えた俺の顔は……我ながらバカみたいに浮かれていた。
帰宅してから龍男の家まで……たった2時間で……人間はここまで落ちぶれてしまうものなのか……。
「龍男……実は……」
俺は未だ震える唇を強引に開き……龍男に先ほどのことを話した……。
愛する妻である千鶴が……教師として尊敬する熊次郎さんと関係を持っていたこと……。
そして……確定した訳じゃないが……音瑚が俺の娘ではなく……熊次郎さんの娘であるということ……。
そして……不貞を不貞だと全く認識していない……むしろ善行だと信じて疑わない……狂人達の訴えを……。
「なっなんだよそれ……千鶴ちゃんが理事長と?
それに……音瑚ちゃんが托卵?
いやつーか……えっ?」
俺の話を一通り聞き終えた龍男は驚愕と困惑で何度も首を傾げていた。
無理もない……。
話している俺自身も……自分が何を言っているのか、理解できなかった。
「まあ……そう思うわな」
「いやだって……千鶴ちゃんから告白して、お前ら結婚まで行ったんだろ?
結婚後もお前一筋みたいだったし……いつもすげぇ幸せそうだったし……。
お互いに不満もなかったんだろう?
そんな子が……よりによって自分の爺さんと浮気して托卵までするとか……正直、俺には信じられないな」
「1番信じたくないのは俺だよ……」
「それに……なんだ?
日本のためとか……優秀な人材とか……いつの時代の構想だよ……」
「でも……あの2人にとっては、あくまで不貞ではなくて妊活だそうだ……。
永遠と頭のおかしい言い訳や演説ばかり聞かされて……もう俺の方が狂っているんじゃないかって……錯覚しそうになった」
おぞましい記憶がまた蘇り……俺は両手で頭を押さえてテーブルに打ちひしがれた。
「そうか……。
正直……まだ理解しきれていない部分が多いけど……1つ聞かせてくれ。
お前は……これからどうしたい?」
「……これから?」
「千鶴ちゃんの意見を受け入れて、今まで通りに家族として暮らしていくか……千鶴ちゃんと離婚して新しい人生を歩むか……。
どっちか選択しないと……お前はこのまま前に進むことはできないだろ?」
「俺は……」
自分の中で答えは決まっていた……。
離婚一択だ。
だけど今まで楽しかった日々が脳裏によぎり……一瞬、言葉を詰まらせてしまった。
千鶴との記憶は……確かに幸せなものばかりだった……。
交際していた頃も……結婚生活も……子育ても……何もかもが楽しかった……。
離婚というのは……それら全てを捨てるということ……。
裏切られたとはいえ……確かに感じていた幸せを自ら手放すことが……忍びなく感じた。
”私はあなたを愛してる!
これからの一生をあなたに捧げるつもりでいるわ!
だから誤解しないで!
これはあくまで……妊活なの!”
でも……あの時のおぞましい記憶が……俺の幸せを全て黒く塗りつぶしていく……。
記憶の中を埋め尽くす美しい光のような千鶴の笑顔が……醜く歪んでいくように感じる……。
彼女の顔を思い出すだけで……吐きそうになる……本能的に体がこわばる。
体の一部になりつつある結婚指輪が……ザワザワとまとわりつく虫のように……気持ち悪い異物と化してしまっている。
そうか……。
もうダメなんだ……。
好き嫌いのレベルじゃない……俺はもう……千鶴という存在そのものが……受け入れられないんだ。
怒り……憎しみ……悲しみ……そんな感情すらも凌駕するほどの恐怖……。
俺の中にはもう……千鶴への愛情はない。
「俺にはもう……千鶴を愛せる自信はない」
「それは……離婚するって意味で捉えて良いんだな?」
「……あぁ」
「そうか……」
「なあ龍男……離婚するの、手伝ってくれないか?」
「それは依頼か?」
龍男はこれでも探偵をやっている……。
とは言っても……依頼なんて全然ないから、生活費はほとんどバイトで稼いでいるみたいだがな……。
それでも……やっぱり見知らぬ探偵に依頼するより、信頼できる親友の方が……心強い。
「そうだ……。
依頼料は働いて必ず払う……。
だから頼む……」
エリート高校に勤務しているとは言ったが……はっきり言ってもらえる給料は可もなく不可もなくって感じだ。
千鶴の稼ぎを合わせることで、生活に多少なりとも余裕を持たせることはできている。
探偵料はどうにか支払えるかもしれないが……離婚の際の弁護士費用まで考えると、とてもじゃないが現状では支払いきれない。
場合によっては裁判費用だって掛かるかもしれないしな……。
だからこそ……お金は慎重に使わないといけない。
「親友でも依頼料はしっかりともらうぜ?」
「わかってる……。
だから……力を貸してくれ」
「……わかった。
その依頼……引き受けよう……」
「ありがとう……龍男」
こうして俺は探偵として龍男を雇い……離婚に向けて動き出すことにした。
実家は遠いので……しばらく龍男の家に泊まることになる。
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翌日……俺は1度、千鶴が外出するのを見計らって帰宅した。
今までは買い物か友達との会食かと思っていたが……また熊次郎さんとの”妊活”に励む気なのかもしれない……。
まあ、今はどうでもいい……。
ガチャ……。
毎日帰ってきていた家だと言うのに……ドアを開けた瞬間、異次元にでも迷い込んだように視界がグラリと歪んだ。
昨夜、おぞましい不貞現場と化していたリビングは……いつも通りの清潔さを保っている。
まるで最初から不貞行為なんて行われていなかったかのように……。
だけどあれは……決して夢幻じゃない。
俺の記憶の中に……トラウマとして今でも焼き付いている。
「うぷっ!」
何度も吐きそうになりながらも……俺は必要最低限の荷物を整理しつつ、音瑚の唾液や髪の毛がついたタオルなどの私物をビニール袋に詰めていった。
これらを使ってDNA検査をすれば……音瑚と俺の親子関係がはっきりする。
千鶴の言葉を信じれば……音瑚は俺の子じゃない。
それを科学的に証明できれば……不貞の証拠には十分だ。
昨夜の浮気現場をスマホで撮っていればさらに確実だったんだが……あの時の俺はスマホを構える余裕なんてなかったからな……。
今更、過ぎたことを後悔してもしかたない……。
龍男には外出中の千鶴を張ってもらっている……俺は俺にできることをやらないと……。
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それから家の中をあちこち調べたが……千鶴の不貞に関する証拠は見つからなかった……。
浮気の証拠と言えばスマホが定番ではあるが……千鶴はあまりSNSをやらないタイプだし……熊次郎さんはスマホを持っていない。
『スマホは人を堕落させる!』
とか言って……スマホで写真すら取らせてくれないくらいだ。
まあつまり……千鶴のスマホに不貞の証拠が残っている可能性は低いということだ。
「音瑚……」
目的を済ませて家を出ようとした時……ふと玄関に飾られていた音瑚の写真が目に入った。
音瑚が生まれたすぐ取った写真……。
この時の俺は……本当に幸せだった。
世界が変わったような気がした……。
この子を一生かけて守ろう……そう決意していた。
だけど……今は……。
「……」
いたたまれなくなった俺は……音瑚の写真に背を向け……家を出た。
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不貞を目撃した夜から2日後……。
俺は調査を龍男に任せ、学校でいつも通り授業をしていた。
メンタル的にかなりきついが……受験シーズンを控えた生徒達のサポートが色々ある。
こんな俺でも……必要としてくれている生徒達がいるんだ。
辛いからと言って……こんな大切な時期に休む訳にはいかない。
俺は教師なんだ……。
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悪夢の夜から3日後の朝……。
「大河!」
そんな俺の気持ちとは裏腹に……育児休暇中のはずの千鶴が職員室に突撃してきた。
3日ぶりにみた彼女の顔は俺と張り合えるほど、ひどくやつれていた。
整い切れていない息遣い……額から流れる汗……俺を見つけた時に輝いた目……。
俺を心配して探し続けていたことが伺える。
「千鶴……」
「一体どこに行っていたの!?
私……ラインも電話も何度もしたよね!?
どうして返事をしてくれなかったの!?」
涙ながらに詰め寄ってくる千鶴……。
周囲にいる同僚の教師達は何事かとソワソワし始めている。
『えっ? 何?』
『夫婦喧嘩かなんかか?』
周囲からの視線や声がチクチクと肌を刺す……。
なんともいたたまれない気持ちだ。
「ねぇ、大河!」
「!!!」
俺は騒ぎ立てる千鶴を強引に職員室から校舎裏へと連れ出した。
こんな大勢の前で、プライベートな話なんてしたくないしな……。
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周囲を見渡して誰もいないことを確認すると……1度深呼吸して気持ちを落ち着かせ、再度千鶴と向き合った。
「千鶴……俺はもう……お前と夫婦でいる自信はない」
「は?……なっ何を言っているの?」
「離婚したいんだ……」
「まっ待ってよ! どうして離婚なんて話になるの!?」
「……わからないのか?」
「おじいちゃんとのこと?
だから何度も言ってるじゃない!
あれはただの妊活であって……浮気じゃないって!
私の夫はあなた1人だけよ!!」
「お前にとってはただの妊活だろうけど……俺にとっては不貞以外の何物でもないんだ」
「何を言ってるの? おじいちゃんと私は血の繋がった家族なんだよ?
どうしてそれが……不貞行為になる訳!?」
熊次郎さんのことは血の繋がった身内だと理解しているのに……あんなことができるのか……。
つくづく千鶴の考えが理解できない。
「私達はただ……この日本を救いたいと願っているだけなの!
おじいちゃんから聞いたでしょう?
優秀な子供を生むことが……女である私の使命なの!
教師である大河なら……理解できるでしょう!?」
「……悪いが、全く理解できないな。
子供の将来を血統だけで決めつけるなんて……俺からすればそっちの方がおかしいよ。
優秀でも犯罪に手を染めてしまった子だっているし……才能がなくても努力して人に認めてもらえた子供だっている……。
それくらい教師のお前ならわかるだろう?」
「でっでも……」
「とにかく……お前とは離婚する
お前に言うことはそれだけだ……」
「そんな……大河は私の事……愛していないの?」
「正直……俺にもよくわからない……。
でも……お前という存在が受け入れられない……。
今こうして向かい合うだけで……吐きそうなほど気分が悪くなる……」
「ひっひどい……」
「そうだな……。
だけど……お前が俺をこんな風にしたんだ」
「わっ私……離婚なんて絶対にしないから!
お互い納得しない限り……離婚なんてできないでしょう?」
「まあな……。
でも……不貞の証拠があれば話は別だ」
証拠というのは無論……DNA検査のことだ。
「そっそんな証拠……」
「まあいずれ教えてやる……。
それと……もう学校で騒ぎ立てるな。
お前もそうだが、熊次郎さんにも迷惑が掛かるかもしれないぞ?」
俺はそれだけ言い残すと……千鶴に背を向けてこの場を去った。
後ろで千鶴が嗚咽を漏らしていたが……泣こうが喚こうが……もう俺の心には何も響かない。
職場に戻ると、同僚達はどうしたのかと声を掛けてきたが……プライベートなことだと返答を濁して、ひとまず納得してもらった。
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これ以降……千鶴が突撃してくることはなくなった。
愛想尽かしたのか……俺の言葉がショックだったのか……よくわからないが、どうでもいい。
これで仕事にも調査にも専念できる……。
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数週間後……。
俺の元にDNA検査の結果が届いた。
結果は……想像通り。
「やっぱり……」
俺と音瑚の親子関係は認められなかった。
わかっていたことだったが……ショックは大きかった。
だけどこれで……離婚に必要なものはそろった。
でも……俺達にはまだ問題があった。
それは……熊次郎への制裁だ。
この結果を千鶴に突き付ければ……離婚することは可能だ。
だけど……浮気相手である熊次郎には手が届かない。
DNA検査はあくまで俺と音瑚が親子ではないことを証明しているのであって、熊次郎と音瑚が親子であることを証明している訳ではない。
それを証明するには熊次郎のDNAサンプルが必要になるのだが……身内とはいえ、上級国民である熊次郎のサンプルなんて……スパイでも雇わない限り、手に入れるのは難しいだろう……。
「龍男、調査の方はどうだ?」
「ダメだ……あの爺さんなかなか尻尾を出さない。
そもそも身内同士だからな……。
2人で密会している所は何度か抑えたが……不貞の証拠としては非常に弱い」
「だろうな……」
他人同士ならともかく……祖父と孫だからな……。
それを不貞だと証明するにはやはりDNA検査が最も効果的だ。
だからと言って……正面から行っても断られたら終わりだ。
「一体どうすれば……」
考えをあぐねていると……龍男が急に口を開いた。
「なあ大河……ちょっといいか?」
この後の龍男の言葉が……この現状を大きく覆す決定打となった。
【次話も大河視点です。
今年最後の更新です。
よいお年を!
by panpan】
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