Silent Girl・人として生きることを教えてくれた少年

gabimaruuu

今日も、彼女は何も言わない

蒼井 神崎(あおい かんざき)は、物静かで人付き合いが苦手な高校生だった。

友達はほとんどいない。誰かと会話することも、ほぼない。


彼女は生きている。

息をして、歩いて、学校に通っている。

それでも時々、自分はただの空っぽの殻のようだと感じることがあった。

意思ではなく、習慣によって動いているだけの存在。


今日は新学期の初日。

高校生活の始まりの日だ。


そして校門の前に立った瞬間、蒼井は理解していた。

――今日は、きっと最悪な日になる。


女子校に行けばよかった……


心の中の声は、登校する生徒たちのざわめきに溶けていく。

蒼井は立ち止まり、高くそびえる校門を見つめた。

それは入口というより、越えなければならない壁のように見えた。


「ねえねえ、見て。あれ、神崎じゃない?」


横から聞こえた声。

足音は止まらず、そのまま通り過ぎていく。


「はは……ほんとだ。あの牛女、この学校に来たんだ。」


軽い笑い声。

蒼井が人生で何度も聞いてきた言葉にしては、あまりにも軽すぎた。


蒼井は俯く。


小学生の頃から、彼女はいじめられてきた。

大きな体は「牛女」と呼ばれ、

眼鏡をかけていれば「四つ目」、

髪を二つに結んでいるだけで「馬女」。


最初は、痛かった。

次に、疲れた。

そして最後には――何も感じなくなった。


これからの学校生活、大変なんだろうな。


ゆっくりと、蒼井は校内へ足を踏み入れる。


クラス分けの掲示板の前で立ち止まる。

感情のない視線で名前を追い――ある一つの名前で、胸が少し重くなった。


三上 愛良。


同じクラス。


小さく息を吐く。

驚きはなかった。人生は、彼女に優しい驚きを与えたことがない。

どうせうまくいかない――それを、蒼井はもう知っていた。


立ち去ろうとした、その時。


「おはよう、蒼井……」


甘い声。

けれど、その視線は冷たかった。


三上愛良は、汚いものを見るように蒼井を見下ろす。

蒼井は黙って俯いたまま。長年の癖だった。


「……ほんと、あんたってムカつく。」


突然、愛良の口調が変わる。


一歩近づき、次の瞬間――

蒼井の髪が強く掴まれた。


「挨拶くらい返しなさいよ、四つ目のくせに。」


頭皮が引きつれ、痛みが走る。

それでも蒼井は抵抗しない。声も出さない。表情すら変わらない。


痛いのかどうか――

もう、自分でも分からなかった。


「この学校でも、あんたの人生、楽にしてあげないから。」


冷たい声。


蒼井の人生は、最初から楽ではなかった。

そして彼女は、もうそれを気にしなくなっていた。


愛良は去っていく。

蒼井は俯いたまま、取り残された。


周囲の生徒たちは見ていた。

囁く者、笑う者、見なかったふりをする者。


蒼井は慣れている。

見世物になることにも、愛良の玩具になることにも。



---


■ 女子トイレ


洗面台の前に立つ蒼井。

水の流れる音が、誰もいない空間に静かに響く。


鏡の中の顔は青白く、

さっき掴まれた髪が少し乱れていた。


空っぽの瞳。


感じていないわけじゃない。

感じすぎて、心が反応をやめてしまっただけ。


指先で赤くなった部分に触れる。

痛みはある。けれど、涙も怒りも湧いてこない。


泣いたら……喜ぶだけ。


蛇口を強くひねり、顔を洗う。

冷たい水が頬を伝う。それでも、感覚は遠かった。


外から、笑い声と足音。

蒼井は個室の中で息を潜める。


もうすぐ……いなくなる。


彼女はいつも待つ。

笑い声が遠ざかるのを。

世界が自分に興味を失うのを。


静かになった後、鏡の前に戻る。


「……蒼井 神崎。」


ほとんど聞こえない声。

その名前は、まるで他人のもののようだった。


制服を整え、震えた手を止める。


大丈夫。

今日は、耐えればいいだけ。


扉を開け、何事もなかったように廊下へ戻る。



---


始業のベルが鳴りそうだった。

俯いたまま教室へ向かう。


その時――


「おい、牛女。」


後頭部に衝撃。

床に倒れ込み、上から笑い声が降ってくる。


「邪魔なのよ。さっさと歩きなさいよ、バカ。」


「三上さん、さすがにやりすぎじゃない?」

「はは、何回殴っても同じでしょ。」


愛良たちが去ろうとした、その瞬間。


「蒼井、大丈夫か?」


差し出された手。


蒼井はゆっくり顔を上げる。

その手を、知っている。


――千垣 海斗。


背が高く、整った髪と端正な顔立ち。

人気者で、それでも――いつも蒼井のそばにいる人。


「また、いじめられたのか?」


答えず、蒼井は立ち上がり歩き出す。

海斗は何も言わず、後を追った。


「誰あの人、かっこよくない?」

「え、あの暗い子の彼氏?」

「ありえないでしょ。」


二人は幼なじみだった。

亡くなる前、蒼井の母は海斗に頼んだ。

――この子を、守ってあげて。


それ以来、海斗は離れなかった。


愛良は歯噛みする。


「……なんであんな女と。」



---


休み時間。


「千垣くん、一緒に食べよ?」


「ごめん、また今度。」


無視して、海斗は蒼井の席へ向かう。


「弁当、持ってきたか?」


無言。


鞄を覗く。

「……ないのか。」


蒼井の手を引き、屋上へ。


静かな場所。


「はい、俺の食べな。」


蒼井は受け取り、黙って食べる。


「お腹すいてたろ。今度は俺の家に来いよ。」


優しい視線。


「……話さなくていい。でも、せめて何か伝えてくれ。」


蒼井は答えない。


海斗は小さく笑った。


「いつかさ……俺がいなくても、立てるようになるよ。」


蒼井の手が止まる。


胸の奥が、静かに痛んだ。


彼はいつも守ってくれる。

そして知らないうちに――

それが、彼女の唯一の支えになっていた。

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