第6話 ぼくは、もうすっかりいい年ではないか
いつの間にか、瞳を閉じていた。まぶたの向こうで流れる光の川が、徐々に輝きを失っていく。ようやく嵐が過ぎ去ったのだと確信して目を開くと、そこは知らない部屋だった。
「……え? 部屋、だよね?」
そう、部屋で合っているはずだ。けれど、どうにも確信が持てない。なぜなら、この空間を形作るものすべてが、イフシオの常識から少し外れているからだ。
タイルの代わりに、不揃いの琥珀が敷き詰められている床。そこから立ち上がる大きくうねった木の幹は、複雑に組み合わさった高い壁となり、同時に吹き抜けの天井としての役目も果たしている。その幹から伸びた枝はいたるところに広がって、あちこちで草花のランプを芽吹かせていた。
「えっ!? ど、どどどういうこと!? 俺たち、千年樹の中にいたんだよね? いや、ここもめちゃくちゃ自然要素あるから、まだ幹の中だって言われたらそんな気もするけど……でも、確実にさっきまでいた場所じゃないよね!?」
首を大きく左右に振って、一緒に来ているはずの二人を探す。幸いにもコレーはすぐ近くにいてくれた。イフシオほど取り乱してはいないものの、不思議そうな表情できょろきょろと辺りを見渡している。
「んっとね。簡単に言うと、ここは魔女が作った『箱』の中にある店なんだよ。さっきまでいたオレたちがいた世界とはちょっと違う、ほんの少し軸がずれた別の世界みたいなもの」
いつのまにか、ペルが木のカウンターの上でお座りをしていた。呑気に長い尻尾を揺らしながら、とんでもないことを言い出す。
「ご、ごめん。ちょっとよくわからないんだけど、とりあえず俺たちは別の空間に移動したってことで合ってる?」
「合ってる」
「それって、さっきコレーくんが魔女さんの名前を呼んだことがきっかけ? ということは、ここは魔女さんのカフェってことで合ってる?」
「合ってるし、合ってる」
「っ、聞いた? ここが君が探していた魔女さんのカフェで間違いないっぽいよ、コレーくん! よかったね!」
「ここが、アーリヤの……」
ぐるんと勢いよく振り向いてコレーを見つめれば、彼はどこか夢心地といった様子でぽつりと呟いた。やがて一拍置いて、はっとしたように顔を上げる。
「アーリヤ!」
魔女の名前を呼びながら、コレーは部屋の奥のほうへ走り出した。壁と同じく太い幹で組まれた長い階段まで一直線に向かうと、そこで予想外の行動に出る。なぜか手すりのほうを踏み台にして、ぴょんぴょんと跳ねるように駆け上がったのだ。もどかしいにもほどがあるだろうとイフシオが驚いているうちに、その小さな姿はあっという間に上階へ消えていった。
「お、追いかけたほうがいいかな? ペルくん、どう思う? あ、でも、邪魔しちゃ悪いか」
「どうせすぐに戻ってくるよ」と、後ろ脚で長い耳をかきながら、当たり前のように猫ちゃんが答える。
「え、なんで? ずっと会いたかった魔女さんとの対面なら、長い時間、二人で話したいことがあるんじゃないの?」
そんな疑問を口にしながら振り返ったイフシオだが、ペルの周囲の光景を視界にとらえた途端、その台詞の意味をうっすらと理解する。
年輪の浮いた濃い色の木で作られたL字型のカウンターの上には、黒猫の姿以外、何もない。その向こうにある調理場も同じだ。カフェなら当然備えているはずの、焙煎器やコーヒー豆の保存容器、ティーカップすらない。
カウンターの近くには、同じ素材でできた大きなテーブルと、二人掛けの席がある。けれど、それだけだ。四人掛けのソファ席や、窓に面したカウンター席といった、普通のカフェなら絶対にありそうなものがなかった。
ないのは設備だけではない。自分たち以外の客の姿はもちろん、店の奥で人が動く気配もなかった。それどころか、この店が営業しているという雰囲気すら、微塵も感じられない。
「……誰もいない」
「わっ、コレーくん! は、早かったね。そ、そっか。魔女さん、いなかったんだ……」
いつの間にか音もなく戻ってきたコレーは、一言だけ呟くと、床に視線を落としたまま動かなくなる。こんな姿は、初めて見た。いつも元気で明るいから、そんなネガティブな感情とは無縁だと、どこかで思い込んでいた。
だから、咄嗟にかける言葉が出てこない。あー、とか、うー、とか言いながら、イフシオは必死で首を巡らせる。何でもいい。ひとつでいいから。魔女につながる手がかりのようなものが、どこかにないだろうか。
たまたまペルと視線が合うと、「これは、コレーにも言ってなかったんだけど」と、猫ちゃんが口を開く。
「オレとコレーがいた城も、この魔女のカフェがある『箱』と似たような空間にあるんだよね。だから、ちょっと時空がねじ曲がっちゃってて——簡単に言うと、魔女の出した手紙がコレーのところに届くまでに、大幅なタイムラグが生じてるんだ。ざっと三百年くらい」
「さ、さんびゃくねん?」
なんだかまた、おかしな話が出てきた。もう、ちょっとやそっとのことじゃ動じないぞと身構えていても、あっけなく驚いてしまう。
「……えっとね。ちょっとまだ、君たちのいた城とかがよくわからないんだけど、つまり、コレーくんのところに手紙が届いた時点で、魔女さんがカフェを開いてから三百年たっちゃってたってこと? そ、そんなの、いくら強い魔力のおかげで長生きできる魔女だっていったって、三百年も生きてなんか――」
そこまで言いかけて、イフシオは片手で口元を抑えた。その先は、コレーが慕う魔女とは無関係な自分が口に出してはいけない。
「三百年……」
質量のあるコレーの呟きが、琥珀の床に落ちる。からんという、儚い音が聞こえたような気がした。
ショックだろうな、なんて陳腐な言葉では慮れない。会いたい人に会えなかった無念さなら、イフシオにもわかる。けれどコレーの場合は、その動機の強さや決意の重さが比較にならない。
何も言えず、けれど何もできない現状から目を逸らすこともできず、イフシオはじっとコレーを見つめる。せめて、些細な変化も見逃さないようにする。そんなイフシオの視線の先で、コレーが顔を上げた。雪をかきわけて懸命に背を伸ばす、小さな花のように。
「それじゃあ、ぼくはもうすっかりいい年ではないか」
「——え?」
予想外の言葉に、耳を疑った。この状況で、最初に出てくる台詞がそれなのか。
「三百歳なんて、エルフでも立派な成人だ。であれば、ぼくは大人ということになる。しっかりしなければいけない。目の前の現実をありのまま受け入れて、そのうえで自分がやりたいと思ったことを遵守するべきだ」
ぱんっと、両頬をたたいて顔を上げたコレーの瞳が、ランプの淡い橙色の光を受けて輝く。まるでカフェ全体を抱きしめるかのように、その場で両手を広げて、大きく息を吸い込んだ。
「アーリヤ! ぼくだ、コレーだ! いや、あなたはぼくのことを知らないかもしれない! ぼくは手紙を受け取るだけで、手紙を届けることはできなかったから! だが、ぼくはあなたのことを知っているぞ! 手紙では甘いものは嫌いだの、かわいいものは嫌いだのと、さんざん文句をしたためていたが、このカフェは甘いものも可愛いものもよく似合う! いい店だぞ、アーリヤ! とてもいい店だ!」
ガラスの天井に向かって熱の入った言葉を贈るコレーを、イフシオはぼんやりと眺めた。コレーは、確かに笑っている。けれど、その笑顔がちょっとだけさみしそうに見えるのは、イフシオの気のせいではないだろう。
「――だからこそ、ここであなたと一緒にお茶が飲みたかった」
声のトーンを落とし、ひとつひとつの音を噛みしめるようにコレーが呟く。思わず鼻の奥が痛くなって、イフシオは慌てて下を向いた。
どうしてだろう。なんでだろう。せっかく、ここまで来たのに。
部屋を出た勇気とか、目的を果たそうと思った頑張りとか、誰かを思う優しさとか、そんなものが報われない世界なんて、おかしくないか?
「あ、ちょっと待って」
「……ペルくん?」
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