眠るゲイザー
スナモミ
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1 ボルカノ駅にて
えらい美人がいるなあと思っていたら、その女が眉をひそめつつ、恥ずかしげに懐からチーズを取り出してかじり始めたものだから、コールソンはあわてて彼女に声をかけた。
「失礼、スティーブンさんですね?」
女はこちらを節目がちに見上げると、とても小さく、そして素早く頷いた。
「申し訳ない、てっきり男と思っておりましたので、目印にチーズなど食べさせてしまい……」
「気にしないでください」
コールソンは周囲を見渡し、人通りが少ない路地を選ぶと「こちらへ」と彼女の手を引いた。
この場所に監視カメラはない。けれど、油断はできなかった。
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そこまで読んだところで、『ウィリアム・マグワイア』は自分の額をこぶしで打った。『サンドラ・サリヴァン』の文体を把握することは大切だが、それよりもまず、自分自身の物語を書き進めなければいけない。
彼はサンドラの短編集を本棚に戻すと、彼女が愛用していたオフライン・コンピューターの前に立った。正面に鎮座するクラシカルなキーボードを撫でると、埃とともに、コーヒーの匂いが立ち上った。
彼の指と記憶が、キーを叩き始める。
【仮題:ライティング・サンドラ:A】
「二十一世紀の、初めごろだったかな」
とサンドラは言った。レールに覆われつつあるバスの中で、木々の梢が窓越しに落とす木陰をよぎらせながら、彼女の唇はボードゲームの歴史について語りだそうとしていた。いまから十五年前の、秋の日だった。
「人はAIに勝てなくなったの。それも、完全に。馬鹿らしいくらいに」
「だろうね」
いささかぶっきらぼうに僕は答える。午前の学習を終えたばかりで、目をつぶると瞼に重みが感じられた。少しばかり、脳を休めなければいけないらしい。
僕は床の鞄へ右手を伸ばすと(窓際に座っているサンドラからは見えないように)左手の
━━途端にクリアになった視界の奥で、コミュニケーションに有用な情報とテクニック、統計データが結びつき、会話のシミュレーションが繰り返される。一・六秒ののち、サンドラの目的とその理想的な着地点を構築し終えた僕は、鞄から水を取り出しながら『脳』へ戻った――
━━眠りと覚醒を瞬時に終えた脳は、戸惑うように「じん」という刺激を発したものの、数舜後にはその深遠な
水を飲み終えたとき、さっきまでの気だるい眠気は消えていた。
「その頃って、みんな
やや冷たい口調で僕は言った。シミュレーションが正しければ、サンドラは二千三十八年にバンコクで行われた囲碁の世界大会について語りたいのだ。話のカタルシスを高めるためには、ナチュラルを軽視する必要がある。
彼女は僕を見つめた。その表情は、子犬のように溌剌としていた。
「そうなの。しかも、ここが重要なんだけれど、当時のボードゲームはナチュラル同士の対戦しか想定していなかった――」
彼女がこめかみに指を添えた。
「つまり、勝敗を『二つの脳みそ』だけで決していたの」
「本当に? それじゃあ、チェスとかチェッカーとか……ああいうのなんていうんだっけ。ええと、ふたり……」
「
「そう。その二人零和有限
「違うわ、二人零和有限確定完全情報ゲームよ」
サンドラが得意げな顔で言い終えたとき、僕たちは耐え切れずに吹き出した。それと同時に、会話のフローチャートは/cR3P5/ルートへ進み始める。僕はその道程に従って会話を続けた。
「わかった、よくわかったよ。とにかく、当時のボードゲームプレイヤーたちはチェスやチェッカーに代表される、運によって左右されることのない、その……二人零和……」
「有限確定完全情報」
「ゲームであっても! 臆することなく、AIに立ち向かったわけだ」
「そうなるわね」
「なんともまあ」僕はため息をついた。「無謀だね」
「ええ、本当に、その通り」
サンドラは窓の外に目を向ける。
バスは静止状態から加速へと移り始めていた。周囲を円筒状に包み込んだレールから乗車口が消えていく。その際に生じる凹凸が、レールのなめらかな表面に飲み込まれる過程を見届けるのが、僕と彼女の日課だった。
「勇敢で、無謀で、身の程知らず」と、頬杖をつきながら、サンドラが言った。
それが口を突いて出たポエムなのか、それとも僕に話しかけているのか、フローチャートは一瞬揺らいだ。
「そのうえ、自分がそうであることを自覚していないナチュラリアンがAIに挑む……」
サンドラは視線を僕に向けた。彼女の瞳の中の、青色に縁どられた虹彩が不安げに揺れていた。
「そういうのをなんて言うか、知ってる?」
僕は首を横に振った。
「無理ゲーよ。無理ゲー」
そう言い終えると、彼女は照れくさそうにはにかんだ。
彼女は僕と話すときにだけ、昔の地球で使われていた古いスラングを用いた。それは真面目な彼女なりに悪ぶろうとした結果なのだけれど、同時に、僕に対して心を開いていることの証明でもあった。
いまになって思えば、この時の
僕はメモリを走らせて適切なスラングを見つけ出すと、こう言った。それはフローチャートに載っていない発言だった。
「無理ゲーで、クソゲーだね」
サンドラの口元から笑みが消えた瞬間、僕の脳とメモリは失敗を悟った。彼女の眼には明らかな失望が宿っていた。
二人の間に、錆色のシャッターが落とされた。
彼女は再び窓の外に目を向ける。頬杖は、もうついていなかった。
「あなたと話しているつもりだった」とサンドラは言った。
「私の相手は、AIで十分ってわけね」
「そんなつもりはないよ。ただ、」
僕は言葉に詰まった。メモリに移行しようとする左手を、脳が止める。
恥じらいと後悔によって、顔が紅潮していくのを感じた。
「僕は、自分に自信がなかったんだ」
当時の僕は九歳で、サンドラは十四歳だった。年は離れていても二人の関係は対等だったし、そうするための努力はお互いにしていた。けれど、どうしようもないことがあった。
彼女は『
沈黙が二十一・七秒続いたとき、サンドラが静かなため息を零した。彼女から少しだけ、僕を許してくれる気配を感じた。
バスが小刻みに揺れ始める。
「面白いジョークとか、有益な情報が欲しいだけなら、人と話す必要はないでしょ」
そう言って、サンドラは背もたれに身を沈めた。
「お願いだから、二人でいるときは私に集中して。一緒に居てくれれば、それでいいんだから」
彼女は続けてなにかを言おうとした。けれど、その言葉は鳴り始めた高音によってかき消された。加速が始まったのだ。動き出したバスが彼女の居住区に辿り着くまで、そう時間はかからない。
八・五秒の気まずい沈黙の後、サンドラは立ち上がった。メモリがバックエンドで組み立てたフローチャートが正しければ、彼女はこう言うはずだ。
「ごめんね。また明日」
サンドラはそうつぶやくと、僕の前を横切っていった。その背中を見つめながら、僕は無駄になってしまったシミュレーションを洗練させていく。「僕」が余計なことをしなければ、今頃は笑いながら、明日の約束を交わせていたのに。
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ウィリアムは入力作業を止めると、文字データをメモリに送信し、校正ソフトを走らせた。
彼は自分の書いている文章に気恥ずかしさを感じていた。
読者にサンドラと自分の距離感を伝えるためには、もう少しドライに書かなければいけない。しかし、そのためにはどういう手法が有効なのだろうか。彼は十一年におよぶ作家生活の中で、初めてのスランプに陥っていた。
これまでに八十六冊の著書を上梓してきたウィリアムだが、そのありようは未開の感情を開拓していく『在りし日の作家』というよりも、体裁を整える『編集者』としての側面が強かった。
プロットに従ってストーリーを書き進めていくのは彼ではない。彼のメモリの中にいる八種のライティングソフトなのだ。
もちろん、適切な修飾や補足を加えはする。しかし文字列に魂を注ぎ込むという経験がウィリアムには欠けていた。
サンドラの遺作を引き継いだことを、彼は後悔していた。しかしどれほど困難であろうと、この文章は彼の手で書き遂げるべきだろう。それが最悪の別れ方をしてしまった彼女に示せる、最後の友情なのだから。
彼は飲みかけのコーヒーをデスクに置くと、引き出しからサンドラの遺稿を取りだした。虚構の歴史をノンフィクション風に綴ったそれは、彼女の作風とは大きく異なる。ウィリアムはそこにエッセイを寄稿して、サンドラ・サリヴァンの人となりを後世に残そうと考えていた。
原稿の表紙には、いくつかのタイトル案が並んでいる。その中で最も秀逸なものは、おそらくこれだろう。
『あの日、チャールズ・コンウェイだった子供たちへ』
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